「日本物理学会 ニセ科学批判シンポジウム」 を批判する
 
 2006.03.20

3月30日に日本物理学会は「ニセ科学批判」のシンポジウムを開くという。
開催提案者の学習院大学の田崎氏によると、マスコミにも注目されているらしい。
物理学会の佐藤勝彦会長は、朝日新聞で次のように述べているそうだ。

ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ

私は、物理学会は物理学の研究をしていればよいと思うし、湯川先生や朝永先生の時代は遠く、現今の一般の物理学者に社会事象を批判するほどの能力があるとは思っていないが、物理学会が上記のような形で社会と関わっていきたいと考えるのは、物理学会の自由である。
しかし少なくとも、何をニセ科学と認識し、どのように批判するかは十分に考慮されなければならない。その観点からシンポジウムの趣旨と内容について、再度批判しておこう。


田崎氏の「概要」への批判

田崎氏の「概要」より

多くの場合「ニセ科学」を批判するには、相手の主張を丁寧に分析し周辺分野の知見を詳しく調べる必要がある。批判の範囲についても熟考が必要だ。「サンタクロースは非科学的」などと発言することに意味はないが、「水に『ありがとう』という文字を見せると美しい結晶ができる」とする小学校の道徳の授業を看過できないというのは多くの科学者の共通の感想だろう。情報発信は基本的には個々の物理学者が行なうことになるだろうが、そこに物理学会が適切な形で関わることができれば、情報の社会的影響力も大きくなるだろう。

これがシンポジウム開催の趣旨ということである。一般論として「ニセ科学を批判する」と言っているが、どうやら最大の目的というか動機は、ここでほぼ名指しで言及しているように、江本勝氏の「水からの伝言」を批判し、否定することのようである。しかし、それには無理がある。

田崎氏が自身のブログで書いていることを見てみよう。

田崎氏のブログから引用
江本勝氏の文章の引用
水の結晶写真を撮るために私が行っている具体的方法はこうです。
水を1種類ずつ50個のシャーレに落とします(最初の数年間は100のシャーレでした)。これをマイナス20℃以下の冷凍庫で3時間ほど凍らせます。そうすると、表面張力によって丸く盛り上がった氷の粒がシャーレの上にできあがります。直径が1ミリほどの小さな粒です。これを一つずつ、氷の盛り上がった突起の部分に光をあてて顕微鏡でのぞくと、結晶があらわれるのです。
もちろん、50個全部に同じような結晶があらわれるわけではありません。まったく結晶をつくらないものもあります。これらの結晶の形を統計にとり、グラフにしてみると、明らかに似た結晶があらわれる水と、まったく結晶ができない水、あるいは、くずれた結晶しかできない水など、それぞれの水のもつ性質がわかるのです。(p.21)
実験の詳細はわからないし、「統計にとり、グラフにしてみる」というのがどいういことかも、この記述からはわからない。もちろん、彼らは科学の論文を書いているわけではないし、理科の教材を作っているわけでもないから、厳密に科学的な実験をしてそれをきちんと記述しろなどと要求するつもりはない。

いずれにせよ、上の記述だけからでもうかがえるのは、これが、きわめてデリケートで再現性の低い実験だということだ。つまり、たとえ同じ条件(のつもり)で同じことをくり返したとしても、(湿度、温度、光の当たり方などなどの)ごく微妙な条件の違いのために実に様々な結果(つまり、結晶の形)が現れると考えられる。また、結晶の寿命は短いらしいので、それを人が顕微鏡でみつけて写真を撮るとなると、どういう写真が撮れるかは撮影する人の腕や心持ちにも大いに依存する可能性がある。

ともかく、彼らは、こうして水の結晶の写真を撮り、都市の水道水は結晶をつくらず自然水は美しい結晶を作るという結論を出したと主張する(この結果にも、私は不信感をもっている)。つづいて、水に音楽を聴かせて(本当に、スピーカーから聴かせるらしい)そのあとに作られる結晶をみるという実験の話になり、美しいクラシック音楽を聴かせた水は美しい結晶をつくり、ヘビーメタルの曲を聴かせた水はばらばらに壊れた結晶しか作らなかったと結論する(私はこの結論は信じない)。そして、きわめつけの、言葉を書いた紙を(ちゃんと水に見える向きにして)水を入れたガラス瓶に貼り付けておき、その後で水の結晶をみるという実験に話がうつる。

田崎氏のブログからの引用 おわり


確かに、江本氏の実験条件は、学会誌へ投稿する論文のようには明快ではない。しかしやっていることは単純であって、採集したサンプルを50個の容器に分けて同じ観察を50回繰り返す。そのとき結晶が現れる回数(結晶の出現率)が、サンプルによって違う、と江本氏は報告しているのである。
江本氏はそこから、結晶の美しさなどについて自分の主観を述べ始めるのだが、田崎氏はそれに幻惑されて実験の物理的本質を見逃している。江本氏の実験の物理的な意味は、「結晶の出現率」にあり、そこに注目すれば十分科学的な観察だと言える。結晶の出現率に注目すれば、江本氏の一連の実験観察は田崎氏が考えるほどデリケートではないだろうし、再現性もそれほど低くはないだろう。江本氏の研究所では長年にわたって同じ観察を続けて熟練しているのだから、このような単純な作業を50回繰り返したときに起きる確率事象に、それほどの紛れがあるとは思われない。

しかし田崎氏は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、私は不信感をもっている と言って江本氏の実験結果をバッサリと切り捨てる。また江本氏は、音楽を奏でて空気を振動させると結晶のでき方が変わる、と報告するわけだが、田崎氏はこれも、 私はこの結論は信じない と言って切り捨てる。
そしてそれが、田崎氏が江本勝氏の主張をニセ科学と批判し、物理学会員を集めて「糾弾集会」を開催する主要な論拠となっているのである。

田崎氏のこのような主張や行動は、科学者として理解力に欠けるし、不当である。

むろん、江本氏の実験は間違っているかも知れない。しかしそう主張するためには、田崎氏は、江本氏がやったのと同様の実験をする必要がある。他人の実験結果を、実験条件が不明確だという理由で、無視することはできようが、否定することはできまい。
ましてや、「私は信じない」などと言って否定することはできないはずだ。「私は信じない」というのは、江本氏に向かって「おまえは嘘つきだ」と言っているのと同じである。社会常識として驚くべき非礼さである。このシンポジウムで講演する人々はみな一様に、江本氏に向かって「おまえは嘘つきだ」と言っている。彼らはどうしてここまで非礼になれるのだろうか。

私は、江本氏の記述で実験条件は十分に明らかになっていて、それ以上の細かい条件をあれこれ変えてみても、実験としてそれほどの意味はないと考えるし、江本氏が報告しているようなことが、ある程度までは実際に起こったのだと考える。つまり、江本氏を信用している。だから、私はことさら江本氏と同じ実験を繰り返そうとは思わない。しかし、追試したい人はできるはずである。

物理学会で公然と「江本勝氏は嘘つきだ」と主張しようとするならば、その人は江本氏と同じ実験をして、江本氏の主張を否定する結果を得てから、そう主張すべきである。自分で実験もせずに、「私は信じない」と言って相手を嘘つき呼ばわりする者は、科学者とは言えない。実験のやり方が分からなければ江本氏に聞けばよい。あるいは江本氏の研究室に行って、そこで自分で実験して観察してみれば話は早いだろう。

そもそも、江本氏を批判する人々がそろいもそろって、どうやら江本氏に会ったこともないらしいのが実に奇妙である。直接相手に会わない、相手に確かめない、という行動パターンは、どうやらニセ科学批判を唱える人々に共通する特徴のようだが、糾弾集会を開く前に、直接会って真意を聞くのが社会人として最低の礼儀ではないか。
田崎氏は
多くの場合「ニセ科学」を批判するには、相手の主張を丁寧に分析し周辺分野の知見を詳しく調べる必要がある。
と立派なことを言っているが、田崎氏が江本氏の主張や知見を十分に調べたとは言い難い。


また、私は、水が「ありがとう」という文字に反応するという話は、よく分からないし、そもそも物理学にはなじまない話だと考えている。したがってこのことを物理学会で取り上げること自体がナンセンスだと考える。
ただし、文字ではなく、撮影者の心持ちが写真撮影に影響を与えることは、田崎氏自身が

どういう写真が撮れるかは撮影する人の腕や心持ちにも大いに依存する可能性がある
 

と言っているように、あり得ることである。そしてそれは、結晶の出現率という確率事象としてとらえてみれば、おそらく実験で判定可能な事象だろう。

しかし当然のことだが、撮影者の心持ちで結晶の出現率が変動したとしても、それは、撮影者の心持ちで水自体が変化したことを意味するわけではない。そうであるかも知れないが、そうでないかも知れない。単にていねいに熱心に観察した結果として、結晶の「発見率」が高まったのかも知れない。
たとえば撮影者が、結晶ができてほしいと念じながら作業をして、その結果、結晶の出現率が高くなったとしよう。そのとき田崎氏は、それは観察者がていねいに観察したせいだと解釈するだろうし、江本氏はそれを、観察者の心が水自体に影響を与えた結果だと解釈するだろう。

撮影者の心の持ち方が水自体に影響を与えるかどうかは、物理学では理解できない事象である。
物理学は心を扱わないからだ。
理解できないからといって、それを「ニセ科学」だと非難するのは間違いである。
それはニセ科学ではなく、「非・科学」の世界なのである。


また、田崎氏は、自身のブログで

これを読んだだけでも、江本氏の「思想」になにか危険なものを感じる人は少なくないと思う(あるいは、そう願う)。


と述べている。
つまり田崎氏は、この問題を物理学の問題としてではなく思想の問題としてとらえているわけだ。
しかし、そうであればこそ逆に、物理学者たちが、物理学の専門家だという理由だけで、この思想問題に介入してくることは間違っている。ましてそれが物理学会の果たすべき役割であるかのように考えることは間違いである。
田崎氏は、「そう願う」と言って、多くの人が江本氏の思想を危険と感じてほしいと願い、そうなるように社会を動かそうとしているわけだが、それは物理学会の役割ではない。





菊池誠氏の「概要」に対する批判

菊池氏の「概要」から
ひとことでマイナスイオン製品といっても、その「発生方式(と称するもの)」はさまざまなので、当然発生する物質もまちまちと考えられる。何かが出ているとは思えない製品もある。そんなものを統一的に説明することなど不可能。
最大限好意的な解釈は物理学辞典にも出ている「大気イオン」だが、そう解釈したところで物質が特定できるわけでもなく、全体としては「なんだかわからない」ものと断言していい。そして、そのマイナスイオンにまつわる最大の問題は、それが「身体によい」とする根拠がない点である。
関連文献がまったくないわけではない。しかし、引用される日本の文献は戦前のものだし、海外の文献には「大気イオンの微妙な効果」についての報告があるのみ。ところが、いつのまにやら「マイナスは身体によく、プラスは身体に悪い」という科学的事実があるかのように世間に認知されてしまった。松下やサンヨーなどの「一流」家電メーカーも臆面もなくマイナスイオン製品を出したが、効果の有無さえわからないものをあたかも科学的証明があるかのように売るのは詐欺と明言して構うまい。


引用おわり

マイナスイオンの定義はシンプルである。
マイナスイオンとは、大気中に浮遊する粒子のうち負に帯電したもののことである。

そしてそれはイオン検出器によって実測できる、実体のあるものであり、大気イオン学ではnegative ionsという。その粒子が何であるか、何で構成されているかは分からなくても、定義に支障はないし、電気量の変化としての測定にも支障はない。すなわち、化学種が特定できないからといってnegative ionsの定義や、その存在が否定されるものではない。

だから、「物質が特定できないから全体として何だか分からない」という菊池氏の主張はナンセンスである。たとえば上空に電離層という大気の層がある。そこにはマイナスイオンやプラスイオンがたくさんある。その化学種は完全には特定されていないのだろうが、電離層は存在するのであり、そこにマイナスイオンは存在するのである。

「米村でんじろう」という人がいる。科学の実験で子供たちを楽しませてくれる先生で、全国を公演して回っている。彼の実験のレパートリーに、シャボン玉を帯電させる実験がある。シャボン玉の吹き出し口に電荷を与えてシャボン玉を帯電させ、他方、細長い風船を脇の下でこすって風船を帯電させる。その風船とシャボン玉との間の反発力や引力でシャボン玉を自由にあやつってみせると子供たちは大喜びする。
このように、「大気中に浮遊する物質」に電荷を与えることは、難しいことではない。だから、マイナスイオンが発生すると称する製品はたくさんあって、それらの発生方式はまちまちである。

中には菊池氏の言うように、マイナスイオンなどまったく出ていないものもあるようだが、それは測定すればすぐ分かるはずである。マイナスイオンが出ていないのに、出ていると言って販売するのは、ニセ科学ではなく詐欺である。詐欺を取り締まるのは警察であり、いちいち物理学会で議論するようなことではない。


また、マイナスイオンが身体によいという根拠は、まったくないわけではないが、一概にはないという意味で、菊池氏の言うことは正しい。

このことについてはもっと研究する必要があるが、これまで私が知る範囲で経験的に分かっていることは、どうも大気中の水分子の存在が関与しているらしいということだ。空気が乾燥した状態で、電極などを利用して電気的にマイナスイオンを発生させると、むしろ身体に害があることもあるようである。
湿度に留意して、あるいは水分子や水滴に直接電荷を乗せて大気中にマイナスイオンが増えるようにすると、人間や動植物の健康によいようである。
一方で、東芝だったと記憶するが、マイナスイオンが発生するエアコンをかけていたら、畳や絨毯の中のダニが減ったという実験がある(菊池氏は、そういう実験を追試なしで否定して詐欺師呼ばわりするわけだが)。ダニが減ることは人間にとっては健康的だが、マイナスイオン自体はダニにとっては不健康だということになる。我々の知見でも、人間や犬猫、牛馬などにはよいが、人間や犬猫、牛馬にとっての「害虫」にはよくないということが実際にある。好気性の生物と嫌気性の生物があるように、マイナスイオンにも、生物によって好き嫌いがあるようで、なかなか興味深いことである。

それはともかく、マイナスイオンが身体によいかどうか分からないという理由で、マイナスイオンという現象そのものがニセ科学であるかのように言うことはできない。
また、マイナスイオンの定義までは物理学マターだろうが、マイナスイオンが身体によいかどうかは、物理学会で議論すべきテーマではあるまい。そのことを語る人材も聞く人材も、物理学会にはいないのではないか。



以上のような理由で、江本氏問題もマイナスイオン問題も、物理学会で議論するようなことではないと私は考える。
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