実は、核発電は経済事象ではないのです。核武装と利権が、日本がむりやり核発電をやっている理由です。
もともと右派の願望として、核武装したい、ということがあり、それが被爆国である日本が「原子力の平和利用」に踏み切った要因です。中曽根康弘元首相や元特高部長で読売新聞社主の正力松太郎初代科学技術庁長官などが推進しました。
1958年頃には防衛庁で原爆の技術的な研究が真剣に行われていました。1959年の参院予算委員会で当時の岸信介首相は「防衛用小型核兵器は合憲」と答弁し、後に1967年の講演で次のように語っています。

平和利用ということと軍事的利用ということは紙一枚の相違である。ある人は紙一枚すらの相違はないといっている。今日の原子力のいろいろな利用というものは、いうまでもなくみな軍事的な原爆の発達から生まれてきているものである。平和的利用だといっても、一朝ことあるときにこれを軍事的目的に使用できないというものではない。(岸信介講演録)

その方針は現在まで引き継がれてきており、2006年に元経産省審議官が、「核燃料サイクルは産業政策の枠を超えて、外交、安全保障政策と統合して対処してゆくことになります」と述べています。
また本年8月に、自民党の石破茂政調会長がテレビ朝日の番組で、「いつでも核武装できることが抑止力になっているので、核発電を止めるべきではない」と発言しています。
たしかに岸元首相の時代には、アメリカの支配から独立したい、そのためには核保有国となって発言権を高めたい、というタカ派の意図もありましたし、世界的にもキナ臭い冷戦時代でした。
しかし世の中は変わりました。アメリカの大統領とロシアの大統領がハンバーガーショップで会談する時代です。日本が核武装することは国際世論の許すところではありません。また、現在の日本はアメリカの核の傘によって安全保障されるという状況に完全に安住していて、国民には核武装しようという気持ちはまったくありません。

さらに、核武装するためには核発電をする必要はありません。核の技術を持ちウラン濃縮やプルトニウムの抽出ができればいいのです。そして日本にはすでに十分なプルトニウムがありますから、核発電はまったく必要がありません。逆に全国に無防備な核発電所を林立させたことは、外国からのミサイル攻撃やテロ攻撃を誘発する危険を大きくしています。
1973年のオイルショックで、エネルギー資源を中東に頼っていた日本は危機に陥りました。その反省から資源の輸入元を分散するために原子力を推進することになりました。しかし当時はソ連とは交渉できない時代でしたが、冷戦が終わり、ロシアの天然ガスが利用可能な有力な資源として登場してきましたから、今では分散化は必ずしも原子力とはなりません。福島で原発災害が起きると、世の中はビジネスですから、さっそくロシアから天然ガスの売り込みが来ました。シベリアには日本のエネルギー需要の数百年分と言われる天然ガスがあります。そして天然ガスによるガスタービン発電は核発電よりも優秀で有望な発電方法なのです。
国策としての核武装や資源の分散化は、歴史的には意味があったかも知れませんが、今では核発電を推進する理由にはなりません。
残るのは「利権」だけです。実際、日本の核発電は「原子力ムラ」と呼ばれる人々の利権のために建設され運転されています。監督官庁である経産省から電力会社の指定ポストに天下る仕組みが出来ています。

1968年の東大闘争の時に東大全共闘議長だった山本義隆氏は、新著「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」(みすず書房)のまえがきで以下のように述べています。

事故発生以来、日本の原発政策を推進してきた電力会社と経済産業省(旧通産省)と東京大学工学部原子力工学科を中心とする学者グループ、そして自民党の族議員たちからなる「原子力村」と称される集団の、内部的には無批判に馴れ合い外部的にはいっさい批判を受け入れない無責任性と独善性が明るみにひきだされている。
学者グループの安全宣伝が、想定される過酷事故への備えを妨げ、営利至上の電力会社は津波にたいする対策を怠り、これまでの事故のたびに見られた隠蔽体質が事故発生後の対応の不手際をもたらし、これらのことがあいまって被害を大きくしたことは否めない。その責任は重大であり、しかるべくその責任を問わなければならない。
本質的な問題は、政権党(自民党)の有力政治家とエリート官僚のイニシアティブにより、札束の力で地元の反対を押しつぶし地域社会の共同性を破壊してまで、遮二無二原発建設を推進してきたこと自体にある。


たくさんの独立法人や外郭団体が作られ、そこに官界、財界、学界の核発電関係者がトコロテン式に押し込まれる仕組みがあります。
それらの人々の、黒塗りの車やデスクや秘書が欲しいという、ちっぽけな欲望によって核発電が維持、推進されています。核発電がなくなれば、これらの団体のほとんどが不要になります。
電力会社の莫大な広告費や寄付によって、学者や知識人やタレントやマスコミは買収されコントロールされています。核発電への批判はなく、迎合的な言論ばかりが世の中にあふれています。プルサーマルに反対していた佐藤栄佐久前福島県知事は、あろうことか検察によって不当に逮捕され、収賄犯として政治的に抹殺されてしまいました。尋問した検事は、厚生労働省の村木局長の事件で証拠を捏造した大阪地検の前田検事です。検察の描いたストーリーに沿って犯罪が創り出されたのです。ソビエト時代の秘密警察と同じです。核発電を誘致した政治家には大きな見返りがあります。地元の政治家にも大きな見返りがあります。地元は道路や公民館などを造ってもらい、自治体の予算の半分くらいの補助がもらえます。そして地元の良心的な反対派は圧殺されてきました。
利権は独占から生じます。自由競争があれば利権は生じません。誰でも一定の資格を満たせば自由に発電して売ることができる、これは欧米では常識ですが、実は日本でも戦前は電力会社が600社もあって、それぞれ地元で発電して周辺に電気を売っていました。ニシンの網元とか酒造会社などが近隣の小さな川などで発電していたのです。戦争遂行のために官僚がそれを一元化し、戦後もその利権を手放さなかったことで、今の電力体制があります。
もう一度電力を自由化して、コンピュータ化したスマートグリッドを作って受送電すれば、利権は消滅します。トヨタや新日鐵やパナソニックなどの大会社は自家発電をかねて電力会社を作るでしょう。電力が自由になればわざわざ核発電をやる人はいません。
自然エネルギーの開発は、核発電を優先するために政策的に押さえ込まれてきました。電力を自由化すれば、自然エネルギー開発が進みます。太陽光発電、風力発電、小水力発電、地熱発電、波力、潮力など、日本の環境と技術力を生かせる分野がたくさんあります。メタンハイドレートや海藻類のバイオマスも可能性があります。天然ガスによるガスタービン発電の技術も日本は優れています。8月に菅前総理の退陣と引き替えに成立した「再生可能エネルギー買い取り法」が、エネルギー資源の多様化を促進するでしょう。
さて、実は本当に怖い話があります。
南海の孤島の地中深くに眠っていた恐竜の卵が原水爆実験の放射能で孵化して・・・・・ではなく、
これから10年で中国で核発電が100基以上稼働し始めます。常に偏西風が吹いていますから、中国の核発電で何かあれば飛んでくる黄砂の一粒一粒にプルトニウムが付着していて日本は放射能まみれになります。自分の国で大事故を起こしておいて、よその国にとやかく言える立場ではありませんが、先般の中国新幹線の事故などを見れば安心はできません。どうしたらいいか。日本が核発電をさかんにやっていて、中国にやめてくれとは言えません。日本が率先して核発電を脱することが、それで中国が核発電をやめるとは言えませんが、中国の核発電を止めるための最低限の条件です。日本が核発電を脱して自然エネルギーを開発し、その技術を中国に供与することで、中国も核発電を脱することができます。

核発電設備の輸出はしない

事故による汚染は地球規模ですから、世界中で脱核発電をしてゆく必要があります。野田政権は核発電設備の輸出に熱心ですが、それはやめるべきです。野田政権は日本では新設しない、やがて脱・核発電すると言っています。なぜか。危険だからです。いくら安全性を高めても、自分たちが危険だと思っているものを売ってはいけません。武器は輸出しないと決めたように、核発電設備も輸出しないと決めるべきです。当面の商機は失いますが、輸出した核発電設備で何かが起これば、いくら運転ミスでも、運転を教えなかったなどと言われ、そもそも自分たちは危険だと思っていたのだろう、と言われて製造物責任を問われるのは必定です。その結果失うものは企業の利益どころではありません。テレビでもカメラでも新幹線でも自動車でもアニメでも、何でも輸出していいでしょうが、核発電だけはだめです。
脱・核発電に右も左もない

ふつうの人の心を持っていれば、核発電はやめようと思うのが当然です。左の写真は大江健三郎さんらが中心となって開催された脱・核発電の集会とデモです。集まった人はいろいろでしょうが、主催は左翼系でした。右の写真は9月3日に横浜で行われたもので、一水会など右翼系が主催した集会とデモです。150人ほど集まったそうです。横断幕には「福島の子供たちを救い出し、麗しき山河を守れ!」と書かれています。 核発電に反対する運動は、国を愛し、郷土を愛し、子供たちを守り、麗しい山河を守ろうとする者が先頭に立って行うべきものですから、真正の右翼が加わるのは当然です。脱・核発電には右も左もありません。

世界は変わった

福島の事故を見て、世界の人々の意識は大きく変わっています。ドイツでは2022年までに脱核発電をすることを正式に政治決定しました。スイスも脱核発電を決めました。イタリアも核発電を停止しました。台湾も核発電の廃止を決めました。アメリカでは作ろうとしていたテキサス核発電への投資が止まり、建設が中止されました。
フランスは核発電大国ですが、核発電設備で爆発事故が起こり死者が出ました。また、フランスの核発電は川沿いにあって川の水で冷却していますが、今年の夏は干ばつで川が干上がりそうになりました。いかにフランスの技術がすぐれていても、川が干上がれば冷却できなくなり、核発電設備は数日で爆発します。それがフランスのあちこちで起こればヨーロッパ全部が滅びます。フランスでも国民の77%が核発電に反対になっています。

脱・核発電の道

核発電から脱するためには、1人1人が正しい知識を持って正しい判断をすることが、回り道のように見えても実効的な方法です。
これまで私たちは多くのニセ情報で洗脳されてきました。また、難しい話でよく分からないから、と思考停止になっていました。
みなさんは、この本で正しい知識を得ることが出来ました。正しい知識を得た人は正しい判断ができます。

県知事がキーパーソン

デモや集会はそれなりに効果がありますが、持続するのがたいへんです。核発電を止めることは政治マターですから、遠回りのように見えても、我々の代表である代議員を動かして民主的に決定することが効果的です。静岡県の牧ノ原市が脱・核発電の決議を挙げましたが、このような決議を次々に上げてゆくことが、脱・核発電の道です。政治的なキー・パースンは立地県の知事です。野田総理は所信表明で、核発電を再稼働するには「地元自治体の理解」が必要だと述べました。地元自治体の最高レベルが知事です。地元が賛成するのは補助金がもらえるからですが、市町村ならともかく県民1人1人のレベルでは金銭的メリットはほとんどありません。逆に事故があれば県全体がたいへんで、県のレベルでは核発電は損なのです。立地県は核発電の是非を知事選の争点にして、脱・核発電の知事を選ぶことです。
これは日本の見慣れた里山の風景です。アラビアの人たちが抱く天国のイメージは、山があって緑に覆われていて、小川が流れて、鳥が鳴き、花が咲いている、というものだそうです。それはそのまま日本の風景です。温暖な気候、豊かな水、豊かな実り、美しい海。薄皮まんじゅうの薄い薄い皮の中にあって、日本という土地はまれにみる天国なのです。大切にしたいものです。
この美しく住みやすい土地を放射能で汚すことは実に馬鹿げた行為です。人々が丹精込めて作った米や野菜や果物が、危険を冒し苦労してとってきた魚貝類が、放射能で食べられないなど、先祖にも子孫にもお天道様にもまったく申し訳のないことです。
電気が欲しいというだけのことで、しかも電気を得る他の方法はいくらでもあるのに、電気がまったく不足しているわけでもないのに、一部の人々の利権のためにこの美しい大地や海を放射能で汚すなど、正気の沙汰ではありません。
東北の被災地を慰問する人たちは、よく「ふるさと」の歌を歌っています。うさぎ追いしかの山、という歌です。良い歌なのですが、なにしろ明治時代の歌なのでちょっと古い感じです。うさぎを追う、小鮒を釣る、とは家族の食卓に動物性タンパク質を補うための子供たちの仕事でした。今はそういう時代でもありません。
「ふるさとのはなしをしよう」は、昭和40年に「浪速のモーツアルト」キダ・タロー氏が作った歌で、故北原謙二さんのヒット曲です。キダ・タロー氏は2万以上の曲を作ったそうですが、ヒットしたのはこの歌だけだと笑っています。海、町、山、という日本のふるさとが歌われている名曲です。また、かつおと言えば気仙沼、花火と七夕は仙台、桃は福島。美しく人情豊かな東北の歌のようでもあります。経済成長を追うのではなく、ふるさとを愛し、家族や友人を大切にして、つつましく生きる日本にしたいものです。
                             
毎年の広島、長崎から、日本人が福島の教訓を生かして、世界の先頭に立って核発電から脱し、新エネルギー技術を開発し、世界に提供していることを報告したいものです。私たちは太陽の恵みで生かされている生命です。できるだけ太陽エネルギーを利用して暮らすことがもっとも理にかなった生き方です。(完)



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