「論座」論評
2007.01.08
大阪大学教授菊池誠氏、学習院大学教授田崎晴明氏、同志社女子大学教授左巻健男氏が朝日新聞の雑誌「論座」2007年2月号の特集「蔓延するニセ科学」に文章を発表している。内容のほとんどは、江本勝氏の「水からの伝言」に対する批判である。
左巻氏は、分をわきまえて批判の対象を小学校の一部教師(TOSS)に絞ってあり、内容は教育界内部の一方の見解として、意味があるのだろう。しかしそれは私の守備範囲ではないから論評しない。菊池氏、田崎氏の文章について論評しよう。
菊池氏、田崎氏の主張は目的を外れている
まず、菊池、田崎の両氏はそもそも、「水からの伝言」が小学校の道徳の時間に教材として使われていることを批判し、それを止めさせようとしていたのではなかったのか?
ところが驚いたことに、「論座」において両氏はその原点を忘れて、江本氏の思想や行動そのものを批判し、江本氏に同調する人々を批判している。
それは菊池氏、田崎氏の初期の目的から外れた見当違いの主張である。
菊池氏は、キクログで「水からの伝言」についての議論を始める初期において、江本氏の主張は宗教だと言っている(どこに書いてあったかは、めんどうなのでいちいちreferしないが)。私もそう思う。したがって、菊池、田崎の両氏が「論座」において江本氏の思想や行動そのものを批判していることは、とりもなおさず、「江本教」という宗教の教義そのものを批判し、否定し、江本教を信ずる信徒たちを批判し、否定していることになる。
江本氏の主張は「宗教」のたぐいである
「論座」特集で菊池氏、田崎氏は盛んに「あれは事実ではない」と言っているが、言葉の使い方としてそれは間違いである。あれは事実であり、事実の一部である。
江本氏は、「ありがとう」という言葉をかけた水の結晶の写真をとって、「ありがとうという文字をビーカーに張ったらこういう結晶ができました」と言っている。ばかやろうという文字を張ってできた結晶とすり替える、ということはしていないはずだ。そんなことをする動機も必要性もないし、ふつうの人はそんなことはしないし、そんな安手の虚構が世界中の人々の共感を呼べるはずもない。つまり江本氏の行動は虚偽でも詐欺でもないし、氏が伝えている事柄は「事実」なのである。
しかしながら、たとえば機動隊と学生が衝突しているとき、機動隊が暴力をふるっている場面だけを報道すれば、それは事実ではあるが真実ではなく、学生が暴れている場面だけを報じれば、それも事実ではあるが真実ではない、ということがある。つまり、虚偽を伝えることは論外だが、事実を並べても真実に達するとは限らないのである。
江本氏は結晶を選んでいるから、写真は事実であっても、科学的に真実とは言えない。現代の科学者が江本氏の主張を科学的に正しいと認めないのは当然だ。事実をどのように選択するか、そこからどういう結論なり教義なりを導き出してくるかは、江本氏が自分だけで決めていて、そこには科学のルールである再現性や客観性はない。だから江本氏の主張は科学ではなく、江本氏は謙遜してポエムと言うが、ひとつの思想であり宗教であると考えるのが妥当である。
宗教批判はやめたほうがよい
相手は宗教だから、常識的には、その教義にまで立ち入ってみだりに批判すべきではないし、批判しても相手には通じない。仮に批判するとしても、きちんと修行したり学問を積んだりした高僧や哲学者ならともかく、菊池氏や田崎氏では教養が足りなくてどうにもならない。菊池氏や田崎氏には、「水に道徳を教えてもらっていいのか」とか「美醜と善悪とは違うだろう」とか「ばかやろうと言うとき、愛情がこもっている場合もあるじゃないか」などといった、決まりきった薄っぺらな議論しかできない。
なんとも恥ずかしい「手紙」
また、特集の冒頭に、菊池氏と田崎氏の連名で、ビートルズのジョン・レノン未亡人オノ・ヨウコ氏への手紙が掲載されている。オノ・ヨウコ氏が2年以上も前の2004年のクリスマスメッセージとしてインターネットで発表した文章に対する両氏のコメントを、オノ・ヨウコ氏への私信という形で表現したものである。
オノ・ヨウコ氏の呼びかけは以下のサイトにある。(messageのスペルが違っているのがご愛敬)一部を紹介する。
http://www.dreampower-jp.com/peace/xmas_messege.html
次の朗報は、日本の科学者、江本勝の実験です。彼は「水が字を読む」ことを発見し、それを実証しました。信じられないような話かもしれませんが、真実なのです。彼の実験を要約すると、彼はビンの中に水を入れ、そのビンに字が書かれたラベルを、内向きに貼りました。そして水を凍らせ、その水の結晶を顕微鏡で観察したのです。その写真を見れば、例えば「愛」という言葉を書いた場合、それがどの言語であっても、その水は美しい結晶になることが分かります。「幸福」という言葉でも同様です。しかし「不幸」と書けば、結晶は発生しません。興味深いことに、「地獄」という言葉を書くと、ひどく汚れた水になりました。
これに対する菊池氏、田崎氏の連名の手紙は、Dear Yoko, という手書きの呼びかけから始まって、「僕たち」が、科学者として、ヨウコ氏が「水からの伝言」を素晴らしいと賞賛していることは残念だ、あれは事実ではないから信じないでくれ、という趣旨が述べられ、最後は以下のように結ばれている。
今、あなたとジョンのアルバムDouble Fantasyを聴きながら、この手紙を書いています。あなたとジョンが選りすぐった言葉、生み出したメロディーを追うことで、少しでもあなたとの距離が近くなって、海の向こうのあなたに僕たちの気持ちが通じるかもしれないとこっそり考えています。
2007年があなたにとって素晴らしい年でありますように。
大阪と東京にて 菊池誠、田崎晴明
オノ・ヨウコ氏の呼びかけは、菊池氏、田崎氏の立場からは、唾棄すべき非科学的なものでしかないはずだ。そうであれば両氏はきちんと正面から批判すべきである。それがまるで2匹の子犬がしっぽを振っているような文章になっている。どうしてそうなるのか。
それは菊池氏や田崎氏に代表されるニセ科学批判者たちが、意見が同じ者同士が集まっておべんちゃらを言い合い、違う意見を言う者は「あの人は波動の人だ」とか「江本氏を擁護している」などと言って排除する、そういう脆弱なメンタリティの持ち主だからである。菊池氏、田崎氏にとってオノ・ヨウコ氏は、意見は違うが「あこがれの人」なのだろう。ビートルズをリアルタイムで経験した世代には、オノ・ヨウコ氏は単にジョン・レノンと結婚した女性でしかないが、ビートルズに遅れてきた世代にとってオノ・ヨウコ氏はカリスマなのかも知れない。だから、オノ・ヨウコ氏に悪く思われたくないと、すりよってみせるわけだ。
さて、この手紙で疑問が残るのは「こっそり考えている」とはどういうことか、という点である。論座では手紙について何の注釈もないから分からないが、そもそも手紙とは相手に出すものだ。その、相手に出す手紙の中で「こっそり考えている」とはどういうことか?
両氏はこの手紙をオノ・ヨウコ氏に出してはいないのではないか?
出したなら、返事は来たのか?
返事があれば、オノ・ヨウコ氏の了解をとってそれも同時に掲載すべきではないか?
編集部はオノ・ヨウコ氏に取材したのか?
これらのことについて両氏から何らかの説明があるべきだ。
何の説明もないから推定すると、おそらくこの手紙は両氏が勝手に書いて、オノ・ヨウコ氏には出さずに、いきなり「論座」に掲載したのだろう。
そのようなやり方はオノ・ヨウコ氏に対していかにも失礼なやり方だが、菊池氏も田崎氏も、そういうしつけがまったく出来ていない。
ニセ科学批判者たちの全員が、インターネットで書き散らした内容が間違っていてもいっさい訂正しないし謝罪もしない。菊池氏は「キクログは一般の場です」と言いながら、七田真、能美正比古、江本、などと相手の名を呼び捨てにしている。科学の世界では論文をreferするとき、相手の名に敬称をつけないのが普通なのだろうが、一般社会で相手の名を呼び捨てにすれば刃傷沙汰だ。しかし菊池氏はお構いなしだ。礼儀を知らない。
それにそもそも、この特集で2年も前のオノ・ヨウコ氏のメッセージにコメントをつけることに、何の意味があるのか。そうする理由があるとしたら、それはオノ・ヨウコ氏の名声を逆利用して特集の価値を高めたいという、いかにも朝日らしい、さもしく、あざとい動機でしかあるまい。朝日の傲慢さと菊池氏、田崎氏の見識のなさに呆れるほかない。
人は「水からの伝言」の科学性を信じているわけではない
田崎氏は次のように書いている。
こと「水からの伝言」に関しては、ごく普通の常識に照らして考えれば「怪しい」ことくら明白なはずなのだ。にもかかわらず、少なからぬ人が「水からの伝言」を「素晴らしい実験結果」と信じて賛美している。これは、ある種の人々にとってそれを信奉する原因が、科学知識の欠如といった単純なものではないことを示唆している。それは人間社会の深い部分に根ざしたもので、残念ながら科学者の「啓蒙活動」程度では簡単には左右されないだろう。
まったくその通りで、オノ・ヨウコ氏も科学者の啓蒙活動では左右されない一人だ。
「啓蒙」とは「蒙を啓く」ということで、無知や愚昧をひらくことだが、オノ・ヨウコ氏は無知でも愚昧でもない。
田崎氏は昨春のニセ科学シンポジウムの開催趣旨説明で、「サンタクロースの物語を非科学的だと排除するほどヤボではないが・・・」と書いていたが、「水からの伝言」と比較すべきはサンタクロースのようなおとぎ話ではなく、宗教的な話、たとえばイエスの復活の話である。
イエスは処刑されて死んだ3日後に弟子たちの前に現れたそうだが、それは科学的にはあり得ない話である。つまりイエスの復活は「科学の枠外」の話である。
水からの伝言も「科学の枠外」の話である。
もし、田崎氏が科学の名において「水からの伝言」という思想や信条、あるいは教義を攻撃するなら、イエスの復活の話をもきちんと批判すべきではないか。こっちはいいが、あっちはダメというなら、その理由をきちんと示すべきだろう。
いま、「水からの伝言」を信じる人、それを信じたい人が世界中にたくさん現れてきているのは、田崎氏が言うように、まさに「人間社会の深い部分」に根ざした動きだと思われる。
世界の状況は、人間同士の争いや環境悪化が年々深刻になっている。アル・ゴア元米国副大統領の「不都合な真実」という映画が世界中で評判になっており、近々日本でも公開されるが、「水からの伝言」はそういう流れの中で人々に支持されているのである。
また、いささか蛇足ながら、「さらに思考を深めるために」という編集部が作ったコラムがあって、そこに田崎氏が先般インターネットに書いた「水からの伝言を信じないでください」(田崎文書)も紹介されていて、その紹介文は「中学生以上の一般層に向けた「水からの伝言」の総合的な批判サイト」となっている。
対象が中学生以上かどうかは「論座」の編集部が決めることではないから、田崎氏が編集部に対してそう言ったに違いないが、田崎文書が中学ではなく小学校の授業内容について、小学生にも分かるように、という意図で書かれていることは、一読して明白だ。
それが何でいまさら「中学生以上」なのか。失笑を禁じ得ない。
ついでに言うと田崎氏は、「水からの伝言を信じないでください」の中で明言した「あの結晶は室内の水蒸気から出来たもので、氷塊から出る水蒸気はいっさい関係ない」ということの理学的な根拠もきちんと説明すべきである。
菊池氏の妄言
さて、「論座」の中で菊池氏は次のように公言している。
「水道管に磁石をつけたところで、水は変化しない」
「磁気活水器」でグーグル検索すると、何十万件ものページがヒットする。
英語でmagnetized water とか magnetic waterなどで検索すると世界中で多くのサイトが見つかる。
多くの人々が、水道管に磁石をつけることで水が変化することを実感しており、私たちの経験でも、多くの適用例、実用例があって、経済的な効果や健康面での効果なども歴然としている。
天羽優子氏でさえ、磁場を通った水が発芽を促進したという報告を紹介している。
また、まだ強力な磁石が無かった60年代70年代のソ連において、膨大な研究がなされ膨大な論文が発表され、農業生産などの実用分野でたくさんの実例が報告されている。
下のコピーは、ソビエトの磁気水に関する論文リストの一部だ。
菊池氏は、世界中で蓄積されてきた、それらの体験や主張や研究を、一言のもとにすべてインチキとして退ける。
確かに、水そのものがどう変化したかを示す測定や実験はまだ成されていない。それは今後の課題である。
しかしそれは「磁石によって水は変わらない」ということではない。
「磁石によって水が変わるかどうか、まだ科学的に確定していない」というのが正しい現状理解である。
だから逆に言えば、「水道管に磁石をつけたところで、水は変化しない」という菊池氏の主張は、科学的には確定していない、ということになる。
菊池氏によれば、「科学的に確定していないことを、科学的に確定したかのように言いふらす」のは「ニセ科学」だそうだから、「水道管に磁石をつけたところで、水は変化しない」という、まだ科学的に確定していないことを、さも科学的に確定したかのようにマスコミで公言する科学者は「ニセ科学者」と呼ぶしかないのではないか。
菊池氏が誠実な科学者であろうとするならば、「水道管に磁石をつけたところで、水は変化しない」と公言した、その科学的な根拠を、早急に公に示すべきである。
水についての研究はどれくらい進んでいるか
また、田崎氏は次のように言う。
これまで、水のそばで話す言葉、水を保存する容器に張るラベルに書く文字、あるいは水が保存してある場所で聴く音楽などはまったく制御してこなかったのだから、「波動」の影響があるとすれば、それは理由不明の実験結果の大きな不確定性として観測されていなければならない。しかし実際には、そのような影響はみじんもなく、(雪の結晶成長を含めた)水を素材にした広範囲に及ぶ精密な定量的実験で、完璧に近い再現性が得られている。
これらはすべて「水からの伝言」がうたうような「波動」の効果についての、きわめて強力な反証実験なのである。
これもまた、むちゃな言い分である。
かつて天羽優子氏は私との議論で、「磁気で水が変わるならスターラーでかき混ぜたら実験結果が変わるはずだ。しかしそんなことは今まで聞いたことがないから、磁気で水は変わらないのだ」と言っていた。それと同じ発想である。
実験家にとって、ほとんどの実験において「予測していない結果は見えない」のが普通である。だから見えない。しかし、「見えないから存在しない」ということにはならない。
「今まで見えなかったからそんなものはないのだ」という田崎氏の主張は、田崎氏の考え方に、科学者として根本的な欠陥があることを示している。
また、「水を素材にした広範囲に及ぶ精密な定量的実験で、完璧に近い再現性が得られている」などという主張も、田崎氏が現実を知らないことを示している。
水を素材にした「広範囲に及ぶ精密な定量的実験」など存在しないし、したがって「完璧に近い再現性が得られている」などということもない。
たとえば強い磁場の間を水を通すと、水は強い「摂動」を受け、その影響は水に残る。だから「発芽に影響する」わけだ。しかしそのことについて、理学的な研究はまだ十分にはなされていないというのが現実である。
「水は難しくてなかなか正体が掴めないんですよ」、「だから水をやると科学の世界で相手にされないんですよ」というのが、まじめな実験科学者たちを取り巻く現実である。しかし田崎氏はそのことを知らない。
田崎氏は一昨年、昨年の「ニセ科学シンポジウム」への呼びかけで、
科学の成果の最良の部分がほとんど疑う余地なく真実に近いのに対応し、一部の「科学」を装った言説はほとんど疑う余地なく何の根拠もないニセモノである。そういった「ニセ科学」は、多くの場合、営利活動と結びついており、科学的であると思わせるような言説を用いることで、おそらくは意図的に、科学に無知な人々を欺こうとしているように見える。
と言っていたが、これも現実を知らないタワゴトでしかなかった。
その後1年の間に、科学の世界で不正義が次々に暴かれたことは周知の通りであり、阪大では自殺者まで出している。田崎氏はどうやら、現実離れした空論を、こけおどしのように言いたがる人のようである。
初めの目的を達成するには
さて、「水からの伝言」に話を戻すと、菊池氏や田崎氏の目的は、当初ははっきりしていて、小学校の道徳の時間に「水からの伝言」を教材として使わせないようにしようという、それだけのことだったはずだ。
オノ・ヨウコ氏を改心させようなどという野望は無かったはずである。
余計なことをせずに当初の目的に専心するならば、その目的を達成するのはそれほど難しいことではない。わが国では、特定の宗教を学校では教えないことになっているから、科学者の連名で、あるいは日本物理学会などが中心となって、文科省にそう言えばいいだけのことである。
たとえば、 ありがとうという言葉をかけると水の結晶の出来方が変わる、ということは科学的な真実とは認められない。それを科学的な真実であるかのようにして子供たちを教育することは、科学者として看過できない。そのような考えは科学ではなく、ひとつの思想であり宗教に近いものである。わが国の学校では特定の宗教に偏った教育はしないことになっているのだから、そういう教材は使わないように全国の小学校に指示を出していただきたい。
というような提案である。
それで文科省初等教育局が納得すれば、それで済む話だ。きちんと筋道を立てて文科省に陳情すれば、通る話だろう。ニセ科学、ニセ科学、と大仰に叫び、ニセ科学の蔓延は科学者にとって不利益だ、科学者とニセ科学者は同じ市場を奪い合っているのだ、などと訳の分からないことを言うから、通る話も通らなくなる。菊池氏は最初から、あれは宗教だと言っているのだから、あれは宗教だと文科省に言えばいいだけのことだ。
もっとも、菊池氏や田崎氏は、初めから目的を達成することを真剣には考えていないフシがある。「僕たち、言うだけしかできないよね」「そうだね、でも言うだけは言っておこうね」「そのうち何とかなるよね」などと互いに慰め合って、「僕たち、出来ることはしたよね」とアリバイ作りをしているだけのようにも見える。
阪大の不祥事に対して、当事者であるべき阪大教授が、「僕たち、言うだけしかできないよね」などと言っているようでは、誰も阪大の改革などできはしない。助手の自殺について究明したいなら、ハンドスピーカーを持って、署名簿を持って、学内世論を作り上げていく運動をすべきだろう。それは世の不条理を糾弾しようとする阪大教授にとって、義務なのではないか。
自分の持ち場の改善も出来ないで、世間で何が出来ようか。