大阪大学菊池誠教授の言語能力の欠如
2006.12.25
大阪大学の菊池誠氏は、キクログで次のように書いている。

道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない

何度も言ってることなんですが、あらためて書くことにしました
 
「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」
 
道徳を物質科学で基礎づけようとするのが「水伝」だったし、しつけの根拠を脳科学に求めようとするのが「ゲーム脳」でした。いや、提唱者がそうだというよりは、むしろ、受け入れる側の思考としてそうなっているという意味です。
それはやはり受け入れる側の「思考や思想の脆弱さ」を示すのだし、あるいは道徳やしつけに対する「自信のなさ」の表れです。もちろん、僕もそんなものに自信はないのだけど、だからといって、自然科学に頼ったところでなにも教えてくれるはずはないことは知っているので。


菊池氏は「科学」という言葉の意味が分かっていないようである。

科学とは何か。「科学」とは、「現象」を理解しようとする人間の営為のことである。
対象が「自然現象」であれば、その営為は「自然科学」と呼ばれるし、対象が「社会現象」であれば、その営為は「社会科学」と呼ばれる。

菊池氏にはその認識に混乱がある。彼の言語中枢の深いところに何か欠陥が内蔵されてしまっているようで、これに限らず、彼から発せられる言語は人々を混乱させる。

たとえば、彼は、「マイナスイオンはニセ科学」と何度も何度も繰り返してきた。

その結果、学生から「先生、マイナスイオンって、ないんですよね」と問われてあわてている。しかしこれは学生が正しいのである。そう解釈するのがふつうなのであって、日本語を理解するふつうの人々にとって、「マイナスイオンはニセ科学」という表現は、マイナスイオンは存在しない、というのとほぼ同義である。
あるいは菊池氏もいささか気が引けたのか、大気イオン学の先達である小川氏に対しては、「マイナスイオンの未科学性」などと言い直してごまかそうとしていた。それで仲間からは未科学って何?とつっこまれていたが。
彼の説明によると、「マイナスイオンはニセ科学」という表現の意味は、「マイナスイオンの効果が科学的にはっきりしないのに、さも効果が科学的に確定しているかのように言って行うビジネスのこと」なのだそうである。

しかし、これは荒唐無稽な日本語だ。

ニセという言葉は形容詞であり名詞を修飾する。そして菊池氏の定義の中で「ニセ」が修飾すべき名詞は「ビジネス」しかない。つまり、菊池氏の言いたいことをちぢめた表現は「マイナスイオンはニセビジネス」ということなのだ。対象はビジネスなのである。

そして、対象がビジネスであって、それを非難しようとするならば、個々のビジネスが、ほんとうにマイナスイオンの効果が科学的に確定しているかのように言っているかどうか、それが問題になるはずだ。

それが、私たちが作り上げた社会規範である。何人も、根拠もなく非難されたり断罪されたりしてはならないし、断罪されるとしてもそれは司法の手によってなされなければならない。たとえば100のビジネスのうち99までがインチキだったとしも、そのことを理由に100のビジネスをすべて十把一絡げで断罪してはならないというのが、我々が作り上げた社会のルールであり、社会の安全装置なのだ。

ところが、菊池誠氏はそんなことにはお構いなしである。「マイナスイオンはニセ科学」と言ってはばからない。その表現によってマイナスイオンを取り扱っているすべてのビジネスを十把一絡げで断罪した。実名を上げ、司法によらずに風評被害をあおってきた。

私はこのようなやり方を、全体主義と呼ぶ。99をやっつけるのに、残りの1つを一緒にやっつけても、まぁいいか、世のためだ、という考え方である。そしてそれは、ニセ科学批判者たちに共通する考え方である。
なぜ共通するかというと、ニセ科学批判者たちの全員が、自分でビジネスをしたことがないからだ。その言論を見るに、ほとんどの者が「官」から禄をもらい、自分で稼ぐことを「卑しい行為」だと考えている。士農工商、切り捨て御免である。
私たちの現代社会は、そういう乱暴なことが起こらないように、細心の注意を払って形成されているのだが、菊池氏らニセ科学批判者たちは、それをぶちこわして平気であり、自分たちは社会正義を実行しているつもりになっている。しかもそのような言論を、国民の財産である大阪大学の公式サイトから勝手に発信している。

菊池氏が「マイナスイオンはニセ科学」と言い続けた理由は、彼の言語能力の欠如以外にもう一つあって、彼は顕在的には意識していないだろうが、3月の物理学会シンポジウムに動員したいという思いがあったと私は考える。一種のセンセーショナリズムだ。「マイナスイオンはニセビジネス」では、物理学会員は集まって来ない。そりゃそうだ。ニセビジネスなど物理学会とは関係ないからだ。
このようにセンセーショナルに行われたシンポジウムは、マスコミなどの注目を集めたようだが、終わってみればもう2度と出来ない。シンポジウムの虚構性やうつろさが多くの物理学者に明らかになってしまった。あとは「ニセ科学批判」のおべんちゃらメンバーで細々と続けるしかない。


さて、最初の話題に戻って、自然現象と自然科学とは全然違うものである。

自然現象に仮託して、道徳観や人生訓を語ることはあっても、自然科学に道徳やしつけを求めることなど、ほとんどない。

たとえば、「一寸の虫にも五分の魂」という人生訓がある。

これは、たとえ小さな虫であっても意思があって活動しているのですよ、ですから人も、たとえ自分の存在が小さなものであっても、自分なりの正義感や主張を持って、相手が大きいからといってそれを曲げないように生きていこうね、という教えである。

これは、自然現象に仮託して、人生を説いた教訓であり、ことわざだ。

一方、自然科学とは、その虫の大きさを測ったり、その虫がある行動をとったときにその行動の目的や理由を推理する、そういう人間の営為のことである。そしてそこには人生訓はほとんどない。

あるいは、「朝の来ない夜はない」などという人生訓もある。

たとえ今は苦しくても、努力すれば将来はきっと明るくなるから、あきらめちゃだめだよ、ということで、これも、夜が来ればやがて朝になるという、自然現象に仮託して人生を語っているのである。
それに対して自然科学とは、なぜ夜の次に朝が来るのか、それは太陽が回っているせいか地球が自転するせいか、あるいはきょうの日の出は何時何分か、などを考察し観察する人間の営為のことである。そこには、特に人生訓というものはない。

江本氏が「水からの伝言」で言っていることは2つあって、ひとつは、結晶の出来方は水のサンプルによって違うという理学的なことであり、もうひとつは、「ありがとう」という声をかけると、きれいな結晶ができるという宗教的なことである。

前者は人生訓でも何でもなく、もっと科学的にフォローすべきことである。

後者が、道徳とかしつけとか人生訓の部分であるが、それは科学ではないのである。
科学には「再現性」というルールがあるが、後者には再現性がない。だから科学の範疇に入らない。江本氏は自然現象(それが自然に起こるかどうかは疑問だが)に仮託して、人生訓を語っているのであり、人々はそのように理解して受容しているのだ。

しかし、それが科学ではないとは、菊池氏らニセ科学批判者がさかんに言ってきたことではないか。そもそも菊池氏は初めから、あれは宗教だと断定しているのである。(だからその後の菊池氏らの活動はすべて宗教攻撃である)

しかるに今頃になって、「水からの伝言」を批判するのに、

「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」

などと言うようでは、おやおや、この人の頭の中はどうなってるんだい? ということになる。

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