私は、どこの大学でも研究者というものはそうやって育てられるものだと思っていたから、
4年ほど前に、東大の安井至氏が、「マイナスイオンなど教科書で習ったことがないから、ウソだと思った」と語っている新聞の記事を見て、「えーっ?逆だろ?」と驚いた。そして、東大がそういう考え方ならば、それに比べて京大には自由な発想が学風としてあったんだなと改めて思ったものである。
科学とは、教科書に書いていない新しいことを研究する学問だから、科学研究の分野で、教科書に書いてないからウソだと考える集団と、教科書にとらわれない自由な発想をする集団があったら、どちらの集団から多くのノーベル賞受賞者が出るかは、おのずと明らかである。(小柴先生は東大では異色である)
ニセ科学批判者たちも「何かを疑っている」のだが、多くの場合彼らの「疑い」は、教科書などの「権威」をモノサシにして、教科書に書かれていない「権威のない考え」やシロウトの発想を糾弾する形で、ほとんど憎悪に近い感情をもって発動されている。
安井至氏や天羽優子氏の言論に、そのことがはっきりと見てとれる。
こなみ氏のディレカに対する悪口雑言も、その典型である。
天羽氏によれば、水は磁場では絶対に変わらないし、クラスターと浸透圧とはまったく関係ないし、健康によい水など絶対に存在しない。なぜならそんなことがあるとは教科書のどこにも書いてないからだ、と彼女は言う。そして、そんなことがあると言う者はそれだけで詐欺師だ、と彼女は憎しみをこめて言うのである。
しかし憎悪は一種のとらわれの感情であり、自由な発想とは対極にあるのであって、余計なものにとらわれているから、彼らは多くの場合、根本的に間違ってしまうのである。
マイナスイオンは空中にあって実測できるものだから、それを研究することをニセ科学と言うのはどうかしている。(マイナスイオンが体によいかどうかは別の話だ)
水の結晶を多数観察して、そこにサンプルの違いによるなんらかの傾向を見いだしたなら、その研究は尊重されるべきであり、反証なしに否定されるべきではない。(ありがとう、うんぬんは別の話だ)
ディレカが電流が流れると言うなら、電流を測ってみればよいことである。
どれも、ニセ科学だとか詐欺師だとか、そういう話では全然ない。
どれも、憎しみをこめてののしるような話では全然ないのである。
世の中にはいろいろな人がいるから一概には言えないだろうが、ニセ科学批判をしている大学関係者の中に、京大出身者がいないのは偶然ではなさそうだ。
京大には、そういうことをする学風がない、ということか。
