学習院大学 田崎晴明氏の 「水からの伝言批判」 の誤り
2006.11.22
田崎氏の間違いを指摘しておこう。田崎氏のページは下記のURLである。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

先般、カリフォルニア工科大学のリブレヒト教授に対する、情報提供、サジェッション、質問などをホームページに掲載し、そのURLを同教授に伝えておいた。その和訳をしたので参照していただきたい。


科学的な間違い


これまでの結晶観察は、中谷宇吉郎先生もそうだが、リブレヒト教授も、水そのものは変化しないと考えて、周囲の条件を変数として結晶の出来方を観察してきた。それに対し江本氏は、周囲の条件をできるだけ一定にして、水を変数として結晶の出来方を観察している。

では、水は変数たり得るか。

私のこのサイトが「水は変わる」というタイトルであることが示すように、私は、私が見聞し体験したさまざまな事実から、水の構造はわりと簡単に変化し、それはかなり持続的な変化であると考えている。特に、ある種の金属表面との接触もしくは衝突や、強い電磁場との遭遇は水の構造を少し変えるのではないかと考えている。したがって、結晶観察においても、水は変数たり得ると考えるし、江本氏の観察事実はそのことを示唆していると考える。

ニセ科学批判者およびその取り巻きたちは、水が変わることを絶対に認めない。それを言う者は詐欺師だとまで言い、そうだ、そうだ、とおべんちゃらを言いあっている。呆れた連中である。
水が変わらない理由など、どこにもない。彼らが、水は変わらないとする理由は、今まで誰も水が変わることを言わなかったし、調べもしていなかったということに過ぎない。江本氏の観察で、新しいことが発見されている可能性がある。

結晶観察は中谷宇吉郎氏によって終わっているとか、リブレヒト教授のチェンバーの中できれいな結晶ができているからもういいとか、平松式デモンストレーションで江本氏のウソは暴ける、などというニセ科学批判者たちの論評はまったく見当はずれである。

また、田崎氏のように、すぐそこにある氷塊そのものを無視して、室内の水分子がつごうよくその氷塊の頂点に何億個も飛んできて、そこで見る見るうちに結晶になっていくのだなどと考えることは、物理の学徒として相当にセンスが悪い。
田崎氏は次のように言っている。
田崎:「水からの伝言」での結晶のでき方は、紛れもない気相成長です。結晶のもとになっているのは、空気中に水蒸気として含まれている水なのです。空気中の水蒸気が次々とくっついて、きれいな形になったのが、あの結晶だということです。「ありがとう」を見せられたり、ヘビメタを聴かされたりしたのは、シャーレの中の水だったことを思い出して下さい。結晶の本当の材料になっている空気中の水蒸気は、別に「ありがとう」やヘビメタのことは、知らないのです。
結晶になるのは、氷塊から蒸発する水蒸気ではない、室内にもともとあった水蒸気だと言い切っている。

私はかねてから、ニセ科学批判者たちが、「江本氏の実験は実験条件が定まっていないから不正確で非科学的である」と非難していることが不思議でならなかった。目の前の氷塊が結晶になるのに、部屋の温度や湿度など、「マイナス5度の部屋で観察しました」で十分ではないかと思っていたのだが、なるほど、ニセ科学批判者たちは、目の前の氷塊ではなく、室内にもともとあった水蒸気が結晶になると本気で思っているわけだ。
それなら謎は解ける。田崎氏は次のように続ける。

気相成長してできる結晶が、きれいな六角形の結晶になるためには、温度と過飽和度がちょうどよい条件を満たす必要があります。過飽和度にもよりますが、おおよそマイナス 15 度からマイナス 13 度のあいだくらいで、六角形のきれいな結晶のできる条件になります。

たしかに、室内が水蒸気で過飽和になっていると、冷たい突起などに水蒸気がベタベタと析出してくる。それがリブレヒト教授の霧箱であり平松式だ。過飽和状態の冷凍庫の中で作業をしていると、衣服や道具にやたらに霜がついてくるものである。
だから逆に、江本氏の観察では室内湿度が
過飽和になっていないことが重要なポイントなのである。そしてそれは、過飽和でなければよいのであって、どのくらい過飽和でないか、などは実験上は問題にならない。したがって「マイナス5度で空調された室内」で、実験条件として十分なのである。

田崎氏は、相手を名指しで非難するのであれば、結晶になる水蒸気のソースが眼前の氷塊ではなく、室内の水蒸気だと考える根拠を示すべきである。それが科学者として、社会人として、最低のルールではないか。

また、これは田崎氏への直接の批判ではないが、元東大の安井至氏が「反証実験をやれ」という文章を発表して話題になっているようだが、馬鹿げた話である。
江本氏は結晶を恣意的に選んでいるのだから、反証実験などやりようがない。そんな提案も馬鹿げているが、そのことを延々と議論しているキクログの常連たちも、実にばかばかしい連中である。
また、菊池氏は平松式でデモンストレーションをやろうと言っているが、室内(箱内)の水蒸気を凍らせて何のデモンストレーションになるというのか、何を説明しようとするのか、まったくトンチンカンな話だ。

科学的な点は以上である。


社会問題として

社会問題あるいは思想問題としてどう考えるかという点については、リブレヒト教授へのサジェッションの中で、私の考えは十分に述べてあるので、それを参照していただきたい。

要は、水が人間の意思や言葉に反応するなどという話は、科学の枠外のことであって、科学者がいちいち批判するようなことではない。また、これを科学だと思って信じている人などほとんどいないことは、doraさんの日記に出てくる小学生の息子さん、(まぁ、dora息子というのだろうが)の反応を見れば明らかである。

実はここでも、ニセ科学批判者たちの抜きがたい差別意識が働いている。自分たちは知恵も知識もあるが、大衆はバカですぐだまされる、何とか助けてやろうという意識だ。余計なお世話である。こういう意識は2流の人間たちに特徴的な優越意識であって、1流の人間は大衆の賢さを知っていて謙虚である。それに、1流の科学者はインターネットで遊んでいるヒマなどない。

また、江本氏は科学だと言っているではないか!などと息巻く人がいるが、江本氏は科学の専門家ではない。科学の専門家ではない者が、これは科学だ、と言ったとしても、科学者がそんなことにいちいち反応していてどうする。
あるいはまた、ニセ科学批判者は、江本氏が「量子力学の波動です」などと言うと、量子力学の波動は確率だから実体はないんだ!などと知識をひけらかすが、江本氏が言いたいのはE=mC2ということであって、量子力学ではない。そんなことも分からず、江本氏の言うことをいちいち真に受けていきり立っているようでは、科学者としての顔(かんばせ)がないというものである。

また、山と渓谷社から、リブレヒト教授の「スノーフレーク」の和訳本が出た。ニセ科学批判者たちは、それがたくさん売れたら、江本批判も高まると期待しているようだ。しかしそこがニセ科学批判者たちの人間理解の浅さというか精神年齢の幼稚さであって、世の中はそういうふうには動かない。
スノーフレークが売れるほど、「水からの伝言」も売れ行きを伸ばす。一般大衆にとって、「スノーフレーク」と「水からの伝言」は同じように見える。それは大衆がバカだからではなく、賢いからである。どちらも「宇宙の神秘」につながっているのであって、大衆はそのことを察知するのである。


批判のしかたについて

田崎氏の重要な誤りを指摘しておく。
私はリブレヒト教授へのサジェッションの中で次のように論じている。

日本の科学者たちは、その問題をそれらの学校教師たちと議論することはできても、江本氏に対して彼の夢物語を放棄させようとするような、インターネットでの合唱や社会運動を推進することは許されない。日本国憲法はそのような野蛮な行為を許さないのである。
自分たちが気に入らないからといって、江本氏の思想そのものを集団的に攻撃することは、日本国憲法が保証する、言論の自由や思想信条の自由という概念に抵触するだろうと私は考える。ましてや、大学の公式サイトからそのような攻撃を加えることは、さらに不当だろう。

しかし田崎氏の罪はもっと深い。

ニセ科学批判者たちが問題にしているのは、「水からの伝言」を小学校の授業で使う教師たちの存在である。したがって彼らが議論すべき相手は、当該の小学校教師たちでなければならない。それ以外ではあり得ないはずだ。私は昨年来そのことを何度も主張している。

ところが今回の田崎氏の「水からの伝言を信じないでください」という文書は、なんと驚いたことに、直接に、小学生たちに向けて書かれているのである。「水からの伝言を信じるな」と小学生に呼びかけることは、それを教えている教師たちを信じるな、と言っているに等しい。



これは教育界における禁じ手の一つである。目的が正しいからいい、ということにはならない。ニセ科学批判者たちは、あくまで当該の教師たちと話し合うべきである。
(そのまっとうなことができないところが、ニセ科学批判者たちの引きこもりオタッキーなところで、誰も、江本氏にさえ会おうとしない。社会人として幼稚である)

それと、話題としては少しそれるが、田崎氏は小学生がインターネットを読むことを期待しているわけだが、小学生にインターネットを与えるべきかどうかは議論の余地がある。

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