冨永氏の実験観察の誤り  その1   2008.07.15


お茶の水女子大学教授の冨永氏がマグローブを購入して、それを通過した水の実験観察をした。弟子の天羽氏がその結果をインターネットで発表している。
http://www.i-foe.org/h19wa1493/sanka2/index.html

その実験報告の中に、冨永氏と天羽氏のものの考え方の誤りがはっきりと出ている。
そのことを順次指摘してゆこう。



1.前提について   

冨永氏は、実験報告の概要として次のように述べている。

概要 
原告が主張している効能のうち、比較的客観的検証になじむ、マグローブを通過させた水道水についてクラスターに変化が生じているかという点と、マグローブを通過させた水道水について表面張力の変化が生じているかという点について検証した。その結果いずれも変化が見られず、原告の主張する種々の効能は
その前提において誤りであると確認した。

しかし私は、水のクラスターが小さくなるとは主張していない。表面張力が下がることを、前提ともしていない。
私はパンフレットで以下のように言っている。

パンフレットのコピー


この文章を冨永氏は、私がクラスターが小さくなると主張していると読む。日本語が通じない。

ここで私が「事実」として主張しているのは、「磁気活水は吸収されやすい」ということだけである。そして、なぜ吸収されやすいのかを説明するひとつの仮説として、クラスターが小さい、という考え方は有力だと言っている、それだけなのである。
だから冨永氏が実験観察して、クラスターは小さくなっていない、と言っても、私としては「ああそうですか」というだけである。

表面張力についても同様だ。私が事実として述べているのは、油が溶けやすくなるということだけである。なぜそうなるのかと考えたとき、それは水の「界面活性」が上がっているということだろう、界面活性が上がるということは、表面張力が下がっているのだろう、と推論しているにすぎない。だから、冨永氏が実験観察して、水の表面張力は下がっていないと言うなら、ここでも私としては「ああそうですか」と言うだけのことである。
(最近では私は、表面張力は上がっているのではないかと考えているが)

ところが冨永氏は、

原告の主張する種々の効能はその前提において誤りであると確認した。

と主張して、クラスター仮説は間違いだから、「磁気活水は吸収されやすい」という事実そのものが虚偽であるかのように言い、表面張力が下がっていないから、「油が溶けやすい」という事実そのものが虚偽であるかのように言う。

しかし、冨永氏のそのような主張は、理学的にも論理的にも間違いである。

仮にこの一連の実験が正しかったとしても(正しくないことを後述するが)、そこから冨永氏が言えることは、「磁気活水が吸収されやすいとしても、それはクラスターが小さくなったためではない」というだけのことであり、「油が溶けやすいとしてもそれは水の表面張力が下がったためではない」というだけのことでしかない。

冨永氏の実験から、「磁気活水は吸収されやすい」という「我々が認識している事実」を否定することはできないし、「磁気活水には油が溶けやすい」という「我々が認識している事実」を否定することもできない。ましてや、この実験によって私(吉岡)が悪徳商法を行っていることが明らかになった、などと主張するのは(次の法廷でそう主張すると冨永氏は裁判所に提示している)、科学者としても社会人としてもまったく非常識で不見識である。

起こっている事実と、その科学的説明との関係について、私は「水は変わる」の1−2で以下のように述べており、その見解は今も変わらない。
http://www.minusionwater.com/1shou123.htm

「水は変わる」より

1−2 通常の販売のやり方


通常、製品を販売するときの売り手の口上はどうなっているか。私たちが扱っているマイナスイオン水生成器の例で言えば、以下のようであれば十分である。
◆マイナスイオン水生成器を使うと(原因)
 ◆お風呂が気持ちよくなりますよ (結果)  
    ・・・だから、一家に一台、いかがですか?
これで十分なのだが、そこは顧客の心理というものがある。「え、ほんと?どうして?」ということになる。買うのは「結果」を買うのだから、どうして?(科学的根拠)という理屈はそれほど重要ではないのだが、やはり買い手の心理として、納得できる説明をしてもらった方が安心だ。そこで売り手は、「それはですね、これこれ、こういう原理なんですよ」と説明することになる。つまり口上は、
@マイナスイオン水生成器を使うと(原因)
Aこういう原理で水が変化して、(理屈)
Bお風呂が気持ちよくなりますよ(結果)
・・・・・だから、一家に一台、いかがですか?
となる。これが通常の商売のやり方である。「理屈なんかどうでもいいからとにかく買え」という売り手はいないし、それで買う人もいないから、ある程度の理屈は必要だ。

ところが、大企業ならともかく、わが国において売り手の多くは中小企業であって、どういう理屈でそうなるかをきちんと説明できる人材がいない場合が多い。たとえば中小企業の社長や技術陣が機械工学出身だったとすると、あまり化学的な事柄や生物学的な事柄には精通していないことがある。だから、それらの人々がなんとか活水器を作ってよい結果が出ても、どうしてそうなるのか、その理屈をうまく説明できないこともある。思いこみもあるし、間違って理解していることもあるし、単なるミスプリがあってもなかなか気づかないところもある。さらに、そもそも新しい製品の場合は、現代科学の知識では、なぜそうなるのかを説明できない部分も多々ある。
だから、どうしてもAの「理屈」の部分は手薄になる。しかし、もともとAの部分は、購入を決断するためにそれほど重要な部分ではないし、買い手にも専門的な知識があるわけでもないから、買い手は適当なところで納得して、「ふ−ん、なるほどねえ」と言って購入する。このとき仮に、科学的説明が不十分であったり間違っていたりしても、その製品がもたらす結果が、売り手の言っていたとおりであれば顧客は満足するし、ビジネスとしてはそれでよいのである。
ビジネスは、科学の解説をするのが目的ではなく、要は、Bの「結果」の「お風呂が気持ちよくなりますよ」というところが本当かどうか、買い手が納得できる結果が得られるかどうか、そこが問題であって、物品の売買としてはそこだけが問題なのである。もしそこに虚偽があれば、それは詐欺だからいずれ司直によって制裁される。意図的な虚偽ではなくても、Bの部分に間違いがあれば、その製品は売れなくなるし、場合によっては損害賠償の対象にもなる。虚偽も間違いもないが、なんらかの理由で買い手が満足できなければ、返品制度によって買い手は守られている。こういう仕組みがあるから、たとえAの部分に間違いがあっても、Bの部分に間違いがなければ、ビジネスとして許容されるのである。

引用おわり

以上が、3年前に書いた「水は変わる」での私の考え方である。その考えは今も変わらない。しかもこの考え方は冨永氏自身が「水商売ウォッチング」の巻頭で述べている、以下の考えと完全に一致している。つまりこれは、ごく常識的で穏当な考えなのである。


ここで取り上げたからといって、製品の販売がいけないということや、性能が悪いということは意味しません。理由は不明だが効果がある、という製品は、効果の確認がしっかりできているなら販売することには何の問題もありません。現段階で科学的説明が無いことを理由に、有用な水処理方法を捨ててしまうことは、やはり科学の誤用になるでしょう。メカニズムがあとから説明されるというのはよくあることです。

つまり、Bの部分がしっかりしていれば、Aの部分に多少の間違いがあってもそれほど問題ではない、と冨永氏自身(「水商売ウォッチング」は冨永氏に全責任があるそうだ)がそう言っている。


ところが冨永氏は実際には、「水商売ウォッチング」において、その穏当な常識からはずれたやり方を強行してきた。国立大学の公式サイトを用いて、民間企業の実名をあげてAの部分に「突っ込みを入れる」ことで、民間企業の営業を妨害し続けてきたのである。
そしてそのような習性が身に付いてしまったのだろう、今、冨永氏は、Aの部分で相手の誤りを証明すれば、それはBの虚偽を証明したことになり、したがってその相手を「悪徳商法」と断ずることができると思いこんでいるのである。

ところがこの点について最近、天羽氏は個人のブログで次のように述べている。

http://www.cml-office.org/archive/?mode=3&y=2008&m=07&d=01
改正景品表示法と運用指針
【追記】
 不実証広告規制についてのメモ。表示通りの効果が客観的に見て無い場合に排除命令の対象になる。つまり、ニセ科学宣伝をしたことが優良誤認にあてはまってしまったというのが、引っ掛かりかたのパターンの1つである。
 では、ニセ科学に基づく表示がなされている商品だが、実際に使うとめざましい効果がある場合はどうなるのだろう。表示が科学的ではないだけで、表示から消費者が受ける印象と実際の効果に乖離が無い場合、理論の説明の部分で誤認は生じたとして、果たして優良と誤認したことになるのだろうか。うーん、すぐには結論が出ない(汗)。サイエンスの側の基準と、法的な基準が、歩み寄っているようで違っている部分について、このあたりを考えるとすこしはっきりしそうな気もするのだけど。

posted by apj (apj's web)
posted at 2008/07/01 18:10:15


今頃になって、すぐには結論が出ない(汗)、などと考え込んでいるが、こんなことは初めから分かりきったことである。むろん「科学」はこんなところに立ち入ってはならない。

ニセ科学の定義として天羽氏は、「科学を装う」とか「科学のフリをする」という表現を使っているが、「ニセ」ということと「装う」「ふりをする」こととは、どちらも「悪意がある」という意味を含む同義語の反復であって、これでは何の定義にもなっていない。「ニセ科学=科学を装う」という等式の両辺にあるのは、天羽氏や阪大の菊池氏の、「相手には悪意がある」という勝手な断定である。

人が間違いをするとき、そこには、過失、故意、計画的、という段階がある。その行為が社会的に処罰されるとしても、その罰は、それが過失か故意か、あるいはさらに計画的になされたか、などによって量刑が変わるのである。それが我々の社会のルールだ。

ところが菊池氏は、疑似科学を「ニセ科学」と呼び変えるときに、「「ニセ」という言葉には価値観が入っているのでこちらのほうがいい」と言ったのである。疑似科学と言うなら、間違いがあるという程度の評価だったのだが、それを「ニセ科学」と言い換えれば、そこにはすでに「相手には悪意がある」という判断がなされている。そしてその判断は自分たちで勝手気ままに決めてよいのだ、というのが天羽氏と菊池氏のルールである。

これは司法もへったくれもないリンチである。これはニセ科学に基づく表示がなされている商品だなどと、当人に悪意があると勝手に断定することは、この社会で許されない行為である。

中小企業のカタログには、科学的に間違っている表現をしばしば見る。中小企業のレベルでは、系統だった科学教育を受けていない者も多いから、それは仕方ないことだ。しかし間違っていても、結果Bの部分で購入者と争いがない(購入者が結果に満足している)ならば、社会的には何の問題もないし、それが悪徳商法であるはずもないのである。

仮に科学者が、科学的に問題があると感じたとしても、それは当該の企業に注意して個々に修正をうながせばよいことである。それが、運よく、系統だった科学教育を享受した者の思いやりであり、大学教員たる者のとるべき方法である。
自分の科学的知識の優位を利用して、インターネットで相手の実名を上げて民間企業を攻撃するなど、科学者がやってはならない行為の最たるものであって、それが科学者の仕事だなどということは金輪際あり得ない。ましてや国立大学の名においてそのような居丈高な情報を発信をすることは、国家の権威の濫用であり、国民に公平に接するという公務員の倫理規定を破る行為であって、絶対に許されないのである。

つづく

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