大学の中か、外か、で問題の本質が違う  2008.05.01


青山学院の瀬尾准教授の暴言が世間を騒がせている。

この問題について、天羽氏が、山形大学当局が「そんなサイトはわが大学には存在しない」と裁判所で明言した「窃盗的アングラサイト」で、いろいろと論じている。
しかし彼女には問題の根本がまったく理解できていないので、しゃべればしゃべるほど、滑稽で哀れでしかない。

4月からいろいろと忙しくて多くを書く時間はないし、これまでの経験で、いちいち天羽氏の主張を正確に refer して議論しても、彼女にはまともな議論が通じないことが分かってきたので、ごく簡単に状況を絵図で示しておこう。

fig.1   seo condition



fig.2  amo condition


seo(エスイーオー)状態と、amo(エーエムオー)状態は、どこが違うか。

一目瞭然だろう。

seo状態では、黒板にものを書いて情報発信をしている瀬尾准教授は、大学の外にいる。
この場合、彼女の言論が大学の公式言論とみなされることはないし、彼女の言論自体を封じる権限も、大学にはない。
もし彼女の言論が、度を超えて世間に有害であったり、誰かを傷つけているとしたら、まず責任を問われるべきは彼女である。場合によっては法的な責任が発生するだろう。

しかし、大学には法的な責任はまったくない。

現実には世間は、瀬尾氏を飛び越えて、青学に対して非難ごうごうであるが、それは法的に責任をとれということではなく、このような者を雇い、放置してきた青学には、状況を是正する社会的責任がある、という批判である。場合によっては解雇権を発動すべきだ、という批判である。そして大学に出来ることは「解雇」までである。


では、amo状態はどうか。

情報を発信している天羽氏が、学内にいること。これがseo状態との大きな違いである。
天羽氏は学内にあって、大学の公式サイトで情報を発信している。
「水商売ウォッチング」については、天羽氏はそれを「大学の社会貢献だ」と言っているのだから、そのコンテンツは大学の公式発言と認定されてしかるべきである。

では、もしそこに書かれていることが、世間に有害であったり誰かを傷つけるものであった場合、誰に責任があるのか。

これはむろん、最終的にはそれを書いた当人にあるのだが、まず第一には、大学に責任がある。大学に管理責任があるのである。

大学はそのような事態になるリスクを負って、ウェブサイトを教員に開放している。だから教員の側も大学のその期待に応えるような運営をしなければならない。そして、99.9%までの大学サイトが、そのように健全に運営されている。瀬尾准教授にしても、大学の公式サイトであのような発言をしたわけではない。

しかし、天羽氏には、seo状態とamo状態の区別がついていない。
私は、以前は、彼女は違いを認知はできているのだが、自分の利益のために、ヘリクツを強弁して、しらばっくれているのだろうと考えていた。だから、さまざまな議論をしてきたのである。
しかし、この数日の彼女の言論を見るに、どうもそうではなかったようである。彼女はどうやら、本当に認知できていないようなのである。
そう理解すると、これまでの彼女の言動の整合性のなさも、理解できなくもない。

amo状態にあっては、発信される情報が世間にとって不適切なものであった場合(絵図ではみんなアングリと口をあけて呆れている)、世間が抗議すべき相手は、大学当局であり、それで必要にして十分である。大学当局を飛び越えて天羽氏個人にクレームをつけることは、世間にとってそれほど簡単ではないし、実効性もないし、スジが悪い。むしろ奇妙である。

私は、「あいつらが法律なんか守るわけがない」という「お茶の水女子大学の公式発言」(匿名で書かれていてもお茶の水女子大学が認めているわけだから、大学の公式発言である)に対して、大学当局に抗議し、その削除を求めた。それがスジだからだ。大学は削除に応じず、当事者同士で勝手にやれ、と責任を放棄した。その管理のあり方を問うて、私は大学当局を裁判所に提訴し裁定を求めている。

天羽氏と富永氏は、その裁判に割り込んできて、私が書いたのだ、オレが書かせたのだ、と言って息巻いているが、そんなことは問題の本質ではない。seo状態なら、瀬尾氏が当事者であり、瀬尾氏に抗議するのが妥当だ。しかしamo状態では、直接天羽氏に抗議するのはスジが違う。大学のhp運用規定もそうなっていて、大学の広報課に抗議するように、となっているのである。

天羽氏は、「教員個人が書いたコンテンツの法的責任は最終的には教員個人にある」ということで大学と合意できている、と言っている。まぁ、そこまでは良いだろう。
しかしそのすぐあとで、だから、「教員個人が書いたコンテンツの法的責任は教員個人にあるのだ」と彼女は勝手に言い換えるのである。「最終的に」という副詞を、勝手に削ってしまっても、文章の意味は変わらないと考えているようだ。

しかし、「最終的に」という文言には重要な意味がある。けっしてサシミのツマではない。
その文言があるかないかで、文意は大きく違うのである。
「最終的に教員個人にある」という表現は、「最初的には大学にある」という意味なのだ。
大人なら誰でもそう読み取る。それが世間の常識である。

お茶の水女子大学のhp運営ルールもそうなっている。hpで何か問題が起きたら、まずは大学が世間と対峙するなり交渉するなりして、しかるのちに、大学としてどう処置するかを決めるのである。そして必要に応じて、その決定を教員個人に通達して適切に措置させるのである。

昨年11月にお茶の水女子大学に対して、電話で文言の削除を要求したところ、お茶の水女子大学はそのように行動し、富永氏も天羽氏も、その決定に服した。また、天羽氏は山形の裁判で、教員が書いたコンテンツの削除権が、大学当局にあることを認めている。
そうであれば、コンテンツの削除要求は、大学当局に申し出るのが正しいスジであろう。削除権を持つ者に要求するのがスジである。そして大学当局が要求を拒否したなら、その決定を不服として裁判所に裁定を求めるとき、その相手が大学当局であることも、まったく当然である。

大学当局と教員個人との間のやりとりは、世間はどうでもいいのである。それは100%学内問題であり、学内で勝手にやればよい。その結果、最終的には教員個人に法的責任が生じることもある。それが「最終的に」という副詞の含意するところである。


別の角度から状況を見れば、構造はいっそう明白である。

もし、瀬尾准教授が、「amo状態」で情報を発信していたとしたらどうか。
すなわち、青学の公式サイトであの発言がなされていたとしたらどうか。
その情報発信をやめさせるために、世間はどうすればいいのか。

大学当局を飛び越えて、瀬尾氏個人と交渉すべきだ・・・これが天羽氏の主張だ。

しかしむろん、世間の常識は違う。
大学当局に要求するのがスジである。
それが法理でもある。

簡単なことだ。

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