トップページに戻る
アエラ2005年12月5日号に以下のような記事が掲載されました。
それについて私の考えを述べます。




アエラ2005年12月5日号

ベストセラーのトンデモ科学度
「水からの伝言」の仰天

水が言葉を記憶する−「そんなアホな」と言うなかれ
この奇妙な説が学校の授業などを通して急速に広がっているのだ





記事 抜粋

江本勝氏の著書「水からの伝言」は、氷の結晶の写真集。「ありがとう」といった良い言葉を書いたラベルを水が入った容器に張ると、水がそれを見て、凍った時に美しい氷の結晶になり、逆に「ばかやろう」など悪い言葉では、結晶ができなかったり、汚い形になったりするという内容。クラシック音楽を聴かせると美しい結晶になり、ヘビーメタルだと結晶がバラバラに壊れてネガティブな反応をするとか、東京やロンドンといった都会の水道水では結晶ができない、とも書かれている。

ニセ科学の典型例
江本氏の説明によると、結晶の撮影方法はこうだ。水を1種類ずつ50個のシャーレ(容器)に1滴ずつ入れて、マイナス20度以下で3時間ほど凍らせた後、マイナス5度の実験室に移し、光を当てて顕微鏡で観察する。温度が上がるので、撮影できるのは2分程度。結晶ができるのは50個のうち、数個から30程度という。
江本氏の書籍は国内で21万部、米国で30万部以上販売され、ベストセラー13位。韓国、ドイツ、フランス、イタリアでも翻訳が出た。
この江本説の広がりように驚いているのは、これまで「馬鹿馬鹿しい」として黙殺してきた学者たちだ。

氷結晶を専門とする北海道大学低温科学研究所の古川義純助教授は憤る。
「無機の物質である水が言葉や音楽に反応するというのは考えられない。荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」
「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない。いろんな結晶ができるから、観察者がきれいな結晶を探せば見つかるだろう。50個中にいくつどのような結晶が出来たのか、データを取らなければ意味がない」
山形大学理学部物質生命化学科の天羽優子助教授も断言する。
「水が情報を記憶することはないし、どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済みで、言葉や音楽とは無関係」

ところが、「水からの伝言」は小学校の道徳の授業でも使われていた。先生が結晶の写真を示して、悪い言葉は使わないようにしましょうと教えているのだ。

広島市立八木小学校の奥田隆教諭は、教員を対象にした模擬授業で、言葉に関係なく同じように腐ったご飯粒やイチゴを示して、道徳の授業で取り上げるべきでないと説明した。
「科学的ではないが素晴らしい本だ、という先生もいた。しかし、結論がいいからといって、子どもたちに信じ込ませてはいけない」

大阪大学サイバーメディアセンターの菊池誠教授(物理学)は、授業に「水からの伝言」を取り上げている例などをインターネットで見つけると、その先生にメールを送ったりして学校現場での拡大を防ごうとしている。
「オカルトや心霊現象にはだまされなくても、ニセ科学を信じてしまう人は多い。結晶の美醜と善悪を分かりやすく結びつけているのが受け入れられてしまう理由だが、安易に道徳の授業に取り入れる風潮は危険だ」

無機化学や環境科学が専門で、「ニセ科学」批判を続ける安井至国連大学副学長は、こう話す。
「馬鹿馬鹿しい説ほど科学者が無視して残ってしまう。科学には分からないことも確かにあるが、物理現象の解明は進んでいて、江本氏の言うような神秘的なことが起きる余地はない。科学立国を目指す日本から、「水からの伝言」のような情報が発信されるのは、恥ずかしいことだ」



江本勝氏に直撃インタビュー

科学ではなく、ファンタジーだが、今後解明されていく


江本勝氏 談話
水からの伝言はポエムだと思う。科学だとは思っていない。僕は科学者ではない。単なるロマン的なこと、ファンタジー。宗教と紙一重なので、誤解いただくこともあるが、宗教ではない。少年のまま大きくなった普通の人間。ただ、科学で分かっていることはほんの数%。95%は分からない。今後、周りの研究者によって科学的に証明されていくと思う。

結晶の撮影は本来は温度や湿度のコントロールできた部屋でやるべきでしょうが、中小企業なので限界がある。ネガフィルムなので改竄はない。ご要望があれば公開したいが、科学者からは無視され、インチキと言われている。

撮影者には、こういうことをした水だという情報を与えている。水は心の鏡だという。撮影者の意識が働いてきれいなものになるということはある。それは別に非科学的ではないと思う。内容を知らせていなくても、良い言葉では良い結晶が多い、そのへんは謎だ。

とても大事なことなのにだれも信じてくれない。あるいは理解できない。それで、僕のような素人がたまたま手をつけた。


以上がアエラの記事の概要である。以下に私の考えを述べよう。


全般についてのコメント

私は江本勝氏の講演会を一度聞いたことがある。自分が撮影した写真を淡々と説明して、これからヨーロッパへ行きますと言い、ヨーロッパではスタンディングオベーションなんですよ、などと少し自慢して、「エーデルワイス」と「みかんの花」の歌を歌っていた。いささか頼りない感じもあったが、何かを煽るということもなく、静かに信念を述べ、信念にしたがって独自で行動しているという印象だった。

このアエラの記事は、いろいろなことを教えてくれるが、私にとって収穫だったのは、江本氏が自分を科学者だとは思っておらず、自分のやっていることは科学ではないとはっきり言っていることだ。

「水は変わる」で書いたように、私は初めから、江本氏を科学者だとは思っていない。そんなことは彼の経歴を見れば明らかだし、当然ながら江本氏のやっていることがすべて科学的なことだとも思っていない。
「水は変わる」 2−8 水の結晶について
江本氏は体系的に物理学を学んだ人ではないから、あちこちから物理学の用語を借りてきては、量子力学だ、振動だ、波動だ、と言う。しかしそれをまともに受け取って、目くじら立てて「量子力学とは何か」「波動とは何か」をまくし立てても意味がない。

しかし「科学ではない」ということと「ニセ科学」とは違う。科学でないとは「非・科学」ということだ。

江本氏が、「自分がやっていることは科学だ」と言っているのなら、それを科学ではないと思う人が、それを批判するのに「ニセ科学」という表現を使うのはいいだろう。しかし江本氏は「自分がやっていることは科学だ」などと、これまで一度も言ったことはないし、今回はっきりと「自分がやっていることは科学ではなくポエムだ、ファンタジーだ」と言っている。

氏が自分の著書に「水の結晶の科学」とでも題をつけたのならともかく、題名は「水からの伝言」「水は答えを知っている」なのだから、これはまさにポエムでありファンタジーなのである。
それに対して「ニセ科学」という犯罪者のようなレッテルを貼ることは不当である。

記事の中で以下の4人のコメントがある。

北海道大学低温科学研究所の古川義純助教授
山形大学理学部物質生命化学科の天羽優子助教授
大阪大学サイバーメディアセンターの菊池誠教授
安井至国連大学副学長

いずれも、江本氏のやっていることを 「氏はそれを科学だと主張している」 と勝手に決めつけて、それは「ニセ科学だ」と批判している。それは不当な批判である。

以下に各氏の批判に対するコメントを述べる。



古川義純氏に対するコメント


古川氏の批判
「無機の物質である水が言葉や音楽に反応するというのは考えられない。荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない。いろんな結晶ができるから、観察者がきれいな結晶を探せば見つかるだろう。50個中にいくつどのような結晶が出来たのか、データを取らなければ意味がない」

江本氏は、「自分がやっていることは科学ではない」と言っているが、水が結晶になるという現象自体は、もちろん自然現象であって、科学的に説明されるべき事柄である。だからこそ、古川氏も一生懸命研究しているわけだ。
私は、アエラのこの記事を読むまでは、古川氏の存在を知らず、低温科学研究所でどういう研究がなされているかも知らなかったが、いま古川氏のホームページを見て、氏が水の結晶の研究をしていること、特に無重力状態での水の結晶の成長過程を熱心に追求していることを知った。
私は「水は変わる」の中で、水の中に結晶が現れる現象について、水と空気との境界面に水蒸気の薄膜が出来るのではないか、結晶の出現の形や確率はそのことと関係があるのではないか、という推測を述べたが、古川氏の研究内容を見て、あながち見当はずれのことでもなかったのかな、と少し安心したところである。

さて、氏はまず、「無機の物質である水が言葉や音楽に反応するというのは考えられない」と言っているが、これは有機の物質なら言葉や音楽に反応することはある、という意味だろうか?。酢や酒なら反応してもいいということだろうか?「生命体ではないから」というつもりで無機という言葉を使っているのだろうか。よく分からない。

以上は些細なことだが、次の、「言葉や音楽」という言い方は粗雑にすぎる。言葉と音楽は別だ。言葉については後述するとして、ここでは音楽について考えてみよう。


音楽は空気の振動である

私が「水は変わる」で示した図を再掲する。水の結晶は、この蒸気層と水の層の境目あたりで出来ているはずだ。そして、その外側は空気である。

実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない」と古川氏はコメントしている。

つまり氏は、温度や湿度によって結晶の出来方は変わると言っているわけだ。
それはつまり、空気層において、空気の分子がどういうスピードで飛んでいるか、その中にどれだけ水分子が飛び交っているかによって、この蒸気層あるいは水の層における結晶形成は影響を受ける、と言っていることになる。
私もその考えに賛成だ。温度や湿度が結晶形成に影響するのは当然だろう。

ところが古川氏は一方で、この空気層にどのような振動を与えても、結晶形成は影響を受けない、そんな話は「荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」と言う。

本当にそうだろうか。

江本氏は「とても大事なことなのにだれも信じてくれない。あるいは理解できない。それで、僕のような素人がたまたま手をつけた」と、言ってみれば科学者に「助け」を求めている。

だから、この研究テーマの世界の第1人者の古川氏であるならば、「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない」などとふんぞり返っていないで、せっかく低温実験室があって、江本氏とは比較にならない好条件を持っているのだから、自分のところで実験をして空気振動の影響を調べるべきではないか。その実験をやって、空気の振動は結晶形成に影響を与えないという結果を出してから、江本氏は間違っていると言うべきではないか。それをせずに、「荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」などというのは非礼である。

それに、非礼であるだけでなく、実際には古川氏は間違っているだろう。
音楽すなわち空気の振動は結晶形成に影響を与えうる、と私は考える。

最後に、「50個中にいくつどのような結晶が出来たのか、データを取らなければ意味がない」と古川氏は言うが、おそらく、この程度のデータは江本氏のところにはあるはずである。
私たちのマイナスイオン水については、50個中47個(94%)が結晶になったという結果を、江本氏からもらっている。


天羽優子氏へのコメント

天羽優子氏の批判
どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済みで、言葉や音楽とは無関係」・・・・と断言した。

どうにもつける薬がない、というのが正直な感想である。
「水は変わる」で述べたが、江本氏は液相の水の中に結晶が現れる現象を観察している。一方、中谷宇吉郎先生は、水蒸気が結晶になる現象を観察している。この二つの現象は、物理的に違う現象である。天羽優子氏はこの違いに気づかない。たぶん同じだと思っているのだろう。
さらに、中谷宇吉郎先生が、雪の結晶の出来方についてすべて解明したなどという見解も、間違いである。
中谷宇吉郎先生の孫弟子である、前掲の古川氏はホームページで次のように書いている。
Nakaya's pioneering work, however, did not provide answers to basic questions such as why the morphology of snow crystals can change drastically with slight variations of meteorological factors (growth conditions), notably the temperature and supersaturation (see Fig. 2). Even though, during the last 50 years, many researchers have struggled with this difficult problem, they have not been able to obtain any critical understanding for the remarkable variety of observed snow crystal shapes.

抄訳   
しかしながら、中谷の開拓的な仕事も、雪の結晶が、温度や湿度などのほんの少しの条件の変動でなぜこのように劇的に変化するのかという基本的な問いには答えていなかった。過去50年間、多くの研究者がこの難問と戦ってきたが、彼らも、雪の結晶の形の著しい変化について、どのような決定的な理解も得ていないのである。

これが科学というものである。「どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済み」などと平気で言う天羽優子氏の言動は、自然に対する畏敬の念を欠き、中谷宇吉郎先生の業績をも冒涜するものであろう。



菊池誠氏へのコメント
菊池氏の批判
授業に「水からの伝言」を取り上げている例などをインターネットで見つけると、その先生にメールを送ったりして学校現場での拡大を防ごうとしている。

「オカルトや心霊現象にはだまされなくても、ニセ科学を信じてしまう人は多い。結晶の美醜と善悪を分かりやすく結びつけているのが受け入れられてしまう理由だが、安易に道徳の授業に取り入れる風潮は危険だ」


江本氏は「科学ではない」と言っている。これはポエムでありファンタジーだと言っている。
そして実は、世界中の人々はそんなことはとっくに承知で、これをポエムやファンタジーとして受け止め、共鳴しているのである。
江本氏の言動をまともに科学だと思っている人は、ほとんどいないのではないか。だから、世界中に広まるのである。科学ではないと思っているから、人は共鳴するのだ。水がきれいな結晶になるだけでも十分に詩的だし、さらに「ありがとう」という言葉をかけるともっときれいな結晶になる、というポエムを、ポエムとして受け止め(もちろんそこに実際に撮影した写真があることもプレゼンテーションとして不可欠である)、そういう気持ちを世界中に広めようという江本氏の考えに共鳴するのである。

そこには、危機に瀕した環境をなんとか改善したいという大衆の希望があり、「周囲の事物に感謝しましょう、その気持ちが相手をもまた変えることがあるのです」という思想によって、社会を良くしたいという願いがあるのである。そういう世界的な潜在意識が、「水からの伝言」に共鳴しているのだ。

こういうわけだから、自分が「科学者」だからというだけで、そのままいきなり「水からの伝言」が引き起こしている社会現象にコメントする立場に立てるわけではない、ということに菊池氏は気づくべきである。「水からの伝言」を、勝手に科学だと決めつけた上で、「それはニセ科学だ」などと叫んでいるのは、菊池氏ら一部の科学者(自称)たちだけであり、いくら菊池氏が「科学的見地」から、「水からの伝言」の広まりを阻止しようと行動しても、実効はないだろう。

「学校現場での拡大を防ぐ」など余計なお世話であり、菊池氏の職掌外のことである。「安易に道徳の授業に取り入れる風潮は危険だ」と考えるのも、菊池氏個人の思想であって普遍的なものとは限らない。賛否があって当然だ。
「そんなものは科学ではない!俺は科学者だ!」などと息巻いてみても、相手は「科学ではない」とはっきり言っているのだからどうにもならない。


安井至氏へのコメン
安井氏の批判
「馬鹿馬鹿しい説ほど科学者が無視して残ってしまう。科学には分からないことも確かにあるが、物理現象の解明は進んでいて、江本氏の言うような神秘的なことが起きる余地はない。科学立国を目指す日本から、「水からの伝言」のような情報が発信されるのは、恥ずかしいことだ」

あまりに無内容なコメントなので、論評に値しない。




結晶は、言葉で変わるか?


天羽優子氏が述べているように、科学の世界では、再現性がないことは真理とは認められない。
量子力学の誕生で、観測者の影響が無視できないことも明らかになってきたが、それでも、人によって時によって違う結果が出るようなことは、真理とは認められにくいのが科学の世界である。

しかし宇宙全体が「科学」で語り尽くされることはない。
宇宙には精神というものがあって、精神と物質との間には相互作用があるようである。



その1例が、スプーン曲げだ。

右の写真は、私のオフィスにいる女性が、みなの目の前で曲げたスプーンである。途中で4分の3回転ねじれている。

彼女は、ほんの少し力を加えるだけで、スプーンを曲げることができる。
ただ曲げるだけなら、力づくでもできないことはないかも知れないが、ねじる、というのは普通はできないし、これを元に戻すのは男の力でもたいへんである。。

そして彼女は、スプーンが曲がるときの「精神状態」を言葉で伝えることができるので、私のオフィスの女性の何人かが、スプーン曲げを修得してしまった。

これは、精神が物質に影響を与えている現象ではないか。

ほかにも私の友人で、スプーンを曲げる人が何人かいる。一番上手に曲げるのは青森に住む少女で、家のスプーンを曲げることを母親から禁じられている。

スプーン曲げは、数十年前にテレビにユリ・ゲラーが登場してブームになった。その後、日本でもスプーンを曲げられる子が続出したが、テレビ番組で無理矢理曲げさせられているうちに、精神が疲れてしまって、生中継の要求通りに曲げられずインチキをしてしまい、それがばれて、スプーン曲げはインチキ、という評価になってしまった。しかし実際は、あれ以来、日本にはスプーンを曲げられる人がたくさんいるようになったのである。

seeing is believing (見る=信じる) だから、目の前で、自分をだます動機のない人たちが、何のトリックもなく日常的に起こす現象を、否定することは難しい。
逆に、私も以前そうであったように、実際に見ていない人には信じられないだろうことも、よく分かる。しかも、スプーンを曲げる人々は異口同音に、周囲にそれを疑う人がいると曲げにくい、などという。つまり、疑う人の前では現象は起こりにくいのだ。
だからアエラにコメントを提供した4人が、スプーン曲げを信じないだろうことは想像に難くない。

しかし、スプーンは曲がるのである。ごく日常的に曲がる。
たぶん訓練すれば誰にでも曲げられるのだろう。

あるいはまた、私はかつて、西野バレエ団の西野晧三先生の気功の塾に通ったことがある。そこでは、練習することで人は「気」を発することができるようになり、その「気」を受けた相手に変化が起きるのである。しかし、「気」とは何か、何が伝わるのか、これもまだ科学的に証明されてはいない。

しかし私たちは、そういう世界に住んでいるのである。

こういうわけで私は、観測者の心によって実験の結果が変わることは、絶対にある、というまでの確信はないが、「あり得ることだ」と考えている。
水が、「書かれた文字」を読みとることはないだろうが、しかし、「ありがとう」と書いた人の心が伝わることは、あるかも知れない。文字は、「ありがとう」でも「サンキュー」でも「カムサハムニダ」でもいいのだ。それを書いた人や、結晶を撮影した人の意識が伝わるということだ。

江本氏は次のように言っている。
「撮影者には、こういうことをした水だという情報を与えている」

これは重要な事実だと思われる。
ただし私は、江本氏の言うことを全面的に支持するわけではない。
「内容を知らせていなくても、良い言葉では良い結晶が多い、そのへんは謎だ。」と、江本氏でさえ不思議がる現象については、江本氏の思いこみか、あるいは無意識のうちに都合のいい例だけ集めてしまったのではないか、という気がする。
また、「水にも心がある」ようなことを言う人がいるとしたら、これはいささか信じがたい。それこそ古川氏が言うように、水は無機物なのだから。スプーンが精神の影響を受けても、それは、スプーンに心があるということではない。水が人の意識で変化しても、それはただちに水にも心があるということを意味するわけではないだろう。



「科学」と「非・科学」の境界線


宇宙は、物質の世界と精神の世界で出来ているのではないか。

物質の世界では、ものごとは再現性があって、人によって結果が異なるということはない。
そこは「科学」の世界である。

一方、精神の世界では、心の持ちようで結果が変わるから、再現性のある実験が成立しない。
「ありがとう」と書いて貼り付けると何かが変わる、という実験は、「ありがとう」と書いた人の心のあり方によって、結果が変わるのである。

だから、広島の小学校教諭の奥田隆氏が実験したら、言葉に関係なくイチゴもご飯も同じように腐った、ということも起こりうるのだが、しかしそのことで、誰かが「ありがとう」と書いたことで何かが変わった、という実験結果を否定することはできない。

これが「非・科学」の世界なのである。そして、「非・科学」は「ニセ科学」ではないのである。


では、「科学」と「非・科学」の境界線はどこだろうか。
水の結晶の例では以下のように図示できるだろう。

古川・天羽・菊池・安井の各氏は、結晶の出来方が音楽、すなわち空気振動の影響を受けるという考えや実験結果を、ニセ科学と言い、神秘的と言って排斥する。

しかし私は、結晶の出来方が湿度や温度や重力の影響を受けるのなら、空気の振動の影響も受けるだろうし、それは物理学の範囲で十分説明できる現象だと考える。

おそらく古川・天羽・菊池・安井の境界線は間違いである。それは古川氏が実験すれば立証されるはずだ。ワーグナーのワルキューレをガンガン鳴らしている時、モーツァルトの子守歌を静かに流しているとき、何も振動がない時で結晶の出来方は違うはずだ。
それは再現性のある科学の世界である。

「ニセ科学を糾弾する」と言っている人々は、「科学」と「非・科学」との境界線が甘くなっているようだ。ちょっと不思議なことに出会うと、ここから先は科学じゃない!などとすぐに言い出すのである。それは、「非・科学」的事象を見たことがない、経験したことがない、認識したことがないせいだろう。

音楽を空気の振動と見れば、空気に触れんばかりの薄膜の中での、水の結晶の出来方が音楽の影響を受けるのは、物理現象として不思議でも何でもない。しかし彼らはそのことに思い至らない。踏み込みが足りないのだ。科学の世界の先に「非・科学」の世界があることが分かっていれば、もう一歩踏み込んで真理に近づくことができるのだが、その一歩が踏み出せない。
さらに、「非・科学」と「ニセ科学」との区別がついていない。「非・科学」を「ニセ科学」だと思っている。
「ニセ科学」は「科学」の中にあって、科学的に批判できるものである。しかし「非・科学」は科学の外にあり、科学的な考え方では批判できない。彼らにはそういう区別がついていない。そういう認識不足の結果として、彼らは、江本氏などの実験結果を深く考察することもなく、遠巻きにして「ニセ科学だ!」とわめくのである。

「水は変わる」で指摘したことも、このことである。磁場によって水が変わることは、実は当たり前なのだ。物理現象として考えれば、変わらない方がおかしい。その変化が直接的な観測にかかるかどうかは別の話だが、磁場にプラスしてたとえば反射板などの工夫をすることで、その変化を増幅することもできるだろうし、変化を生命現象に転化したり時間積分したりして見えるようにすることも可能である。
ところが、天羽優子氏らは、科学の世界の先に「非・科学」の世界があることを知らないから、「科学」と「非・科学」の真の境界線のはるか手前に自分らで勝手に境界線を引いて、「水はそこに含まれる溶質が変わらなければ変化しない」、「そうでない、などという考えはニセ科学」だ」などと、ちっとも現実を説明できないタワゴトをいつまでも繰り返すばかりである。



アエラの取材について

講演会などの企画会社と関係がある私の友人が、11月16日の、この江本氏の講演会の企画にたまたま少し関わっていた。その彼が言うには、アエラから取材の申し込みがあり、周囲は、どうせ否定的なことを書かれるに決まっているから断りましょう、ということだったのを、江本氏が、「別にいいよ」と言ってOKしたという経緯があったそうだ。
アエラの編集部の有吉由香氏の取材方針は、予想通り、初めから偏見を持って江本氏の仕事を否定することにあったようで、批判者ばかりのコメントを集めているが、江本氏にはそれも織り込み済みだったようである。
たぶん江本氏は、この機会をとらえて 「これはポエムだ」 と言いたかったのではないか。

アエラへ記事へのコメント おわり

トップページに戻る